書評・楊炳章著『鄧小平・政治的伝記』
『蒼蒼』第89号1~16ページ
蒼蒼社、1999年12月10日発行
楊炳章著『鄧小平・政治的伝記』(朝日新聞社刊、1999年)は、いかなる書物なのであろうか。著者楊炳章(ベンジャミン・ヤン)はハーバード大学で博士号を得た気鋭の学者とされている。その成果を認められて、いまは中国人民大学国際政治系教授らしい。訳者は朝日新聞社中国総局長加藤千洋氏(夫妻)である。そしてこの本は、ハーバード大学フェアバンクセンターで著者と面識のあった慶応義塾大学法学部教授国分良成氏が訳者に紹介したものだという。ブランドがこれだけ揃うと普通の読者にとっては安心であろう。ところが、本書はブランドの危うさを示す恰好の反面教師ではないかと思われる。
「まえがき」に「ニューヨーク州立大学のマーク・セルドン教授」(12ページ)とあるが、これは「マーク・セルデン教授」と表記するのが普通である。日本語に堪能な同教授はみずから「セルデンです」と電話口で名乗るのが常である。私の書評に接したら、わが旧友セルデン教授は、このような本に「謝辞」を書かれたことに苦笑するに違いない。
・鄧小平は狡猾な経営者か
「(鄧小平は)実利主義者というより狡猾な経営者で、うまく人を選び、彼らに信頼をおいた」(訳書2ページ)。Despite his reputation, he was less a economic thinker than a skillful manager, choosing good people, and trusting them somewhat more than Mao did.(p.x.) これは忠実な訳といえるであろうか。試みに訳せば「その評判とは違って、彼はエコノミストというよりは、有能な経営者」の意であろう。「狡猾な経営者」と「有能な経営者」ではニュアンスがまるで異なる。
「(著者は)政治家鄧小平を語り、狡猾で素早いが、いつも賢明とは限らないという」(訳書4ページ)。He finds him clever and quick, but not always wise.(p.xii.) clever and quickを「狡猾で素早い」と訳すのは適当であろうか。訳者の偏見を感じないわけにはいかない。
・鄧小平の「悪魔の心」とは
「鄧小平の伝記を書くのはたやすい仕事ではない。彼は、自己の悪魔の心を公にしなかった」(訳書3ページ)。It is not an easy task to write a biography of Deng. His private demons were kept private indeed.(p.x.) private demonsを悪魔の心と訳すのは適当であろうか。これはドイツ語のデモーニッシュな、つまり「鬼神に取りつかれたような人間」の意ではないのか。ここを「悪魔の心」と訳して、仲間への粛清(たとえば李明瑞)と重ねると、吸血鬼のような鄧小平像になるおそれがある。これが訳者のイメージなのであろうか。
・ 李鉄映の出生について
「私の個人的判断では、この劇的出会いによって李鉄映・現政治局員(国家教育委員会委員)が生まれた。三六年の長征終了後しばらくしてのことである」(訳書99ページ)。この箇所に楊炳章は以下の注記を加えている。「李鉄映の出生の背景に関しては私の憶測に過ぎず、有力な根拠を得られていない。1988年2月にハーバード大学東アジア研究フェアバンクセンターにおいて、これらについて徹底的な討論を行った(訳書336ページ)。ある人間の品性あるいは名誉に関わる重大事について、本文では上記のように表現し、巻末の注記においては、「憶測に過ぎず」と逃げを打つ。みずからの責任を極力回避しつつ、誹謗中傷を加えるのは卑劣な作風である。かつて中国ではこの噂が広く流布したことがある。それは李鉄映と鄧小平の関係から生まれた憶測である。李鉄映を鄧小平が可愛がっていたのは事実である。李鉄映が恐らく「パパ」と呼んでいたのは(聞いたことはないが)おそらく事実であろう、と想定できる。李鉄映から見て鄧小平は「母の前夫」であり、しかもその離婚は、政治的状況のもとでいわば強制されたものであるからだ。事柄は鄧小平から見ても同じだ。李鉄映は自分の子ではないが、かつて愛した妻の子である。それを庇護するのは鄧小平の男気というものであろう。なお、原書328ページでは「李鉄映(娘)」と男女を取り違えた妙な説明がある。
・非客家説について
著者楊炳章はこう書いた。「彼(鄧小平)が革新的なのは、他所から移り住んできた客家だから、というのも勝手な想像である」(訳書二八ページ)。ここで楊炳章の注釈は以下のごとくである。鄧伝記の多くが鄧の客家出身説をとり、革命家としての一生に大きな影響を与えたことを強調する。「鄧の故郷を取材中、彼を客家の出身という村人は皆無だった」。私自身は『鄧小平』(講談社、現代新書)において、客家説をとっている(現代新書、一五ページ)。そこで「鄧伝記の多くが鄧の客家出身説」をとっていることを批判する著者の論拠には注目せざるをえない。では著者は何を根拠に客家説を否定するのか。「鄧の故郷を取材中、彼を客家の出身という村人は皆無だった」からである。著者が「いく人の村人」に対して「どのようなインタビュー」を試みたのか、その発言を「どのように検証」したのか。まるで記されていない。つまり、著者の「調査」なるものは、私がかつて批判した『朝日新聞』一九九二年一月一八日付堀江義人特派員の「取材」と大同小異なのだ(現代新書、一五ページ)。私自身は当時、文献資料のほかに、「明初に江西省吉安府廬陵県から移住した」とする『鄧氏族譜』をもとに推定したが、その後、客家説を裏付ける資料に接したので、付記しておく。凌歩機著『鄧小平在贛南』(中央文献出版社、一九九五年七月)である。この本にこう明記してある。「彼の祖籍は江西省吉安府廬陵県(現在の吉水県)である。明朝洪武帝十三年(公元一三八〇年)に江西省から四川省に入った。「客家」民系に属している」(一二ページ)。これは大陸で出版された資料として客家説を書いた嚆矢である。楊炳章の本は、一九九八年に出た。私がいま証拠資料として挙げた『鄧小平在贛南』はその三年前に出ている。「歴史家である以上、中国専門家、いや非専門家の嘘八百発言に知らんかぶりを決めこんではきけない」(訳書二七ページ)という居丈高なセリフは、楊炳章自身に対する警告としてよくあてはまるものではないか。
・中央秘書長問題
楊炳章は鄧小平の一九二七年中央秘書長就任を否定して、「一九三〇年代ですら、党中央の秘書長になったという記録はない」という。その理由として「これは通常政治局員がなり、周恩来、李立三のような地位にある者がなった。鄧小平はまだ中央委員にもなっていなかった」と書く。さらに注記して「一九二八~二九年の上海で、共産党中央秘書長は周恩来、次に李立三だった。当時、二人とも政治局員であり、党中央委員でない鄧小平がなれるわけがなかった」と補足している(訳書七七ページ、三三五ページ)。
英文は以下の通り。From October 1927 to September 1929, Deng worked as a staff member or secretary for the underground Party Center in Shanghai. Chinese official historians and Deng himself nevertheless claim that he held the position of mishuzhang, or chief secretary of the Party Center.(p.55).No documentary evidence shows that Deng had ever in the 1930s been the Party Center's mishuzhang, or chief secretary---even further from its English translation "general secretary" or "secretary general." The official title of chief secretary did exist at some period in party history, and such a position was normally held by a Politburo member, such as Zhou Enlai or Li Lisan. Deng was not yet a Central Committee member. (p.57). It became almost a casual habit for Deng to brag excessively about his official seniority in the early 1980s. Despite my respect for Deng as a great politician , such a habit strikes me as odd and unnecessary. Deng should have known better than anybody else that, in Shanghai in 1928-29, the post of the CCP Center's chief secretary, or mishuzhang, had been held by Zhou Enlai and then Li Lisan, both of whom were full Politburo members, and not possibly have been held by a non-Party Center member like himself.(p.293).
これは楊炳章の無知を示す。鄧小平が一九二九年に広西に派遣された後に、後任の「中央秘書長」となったのは余沢鴻(一九〇三~一九三五)である。余沢鴻は当時二五歳、前任者鄧小平より一歳年上であった。李盛平主編『中国現代史詞典』(四九二ページ)にこの「中央秘書長」という肩書が明記されている。楊炳章は当時の「中央秘書長」ポストを「中央総書記」ポストと混同して、政治局委員でなければならない、と誤解しているにすぎないのだ。当時の党内事情を知らないからであろう。もしかしたら、これは不適切な英訳にひきずられたものか。『鄧小平文選』英訳を調べると、中央総書記も中央秘書長もともにGeneral Secretary あるいは Secretary-Generalと訳されていて区別がつかない形になっている。
・瑞金県書記就任の日時問題
鄧小平が瑞金県党書記に就任したのはいつか。著者は通説をこう批判する。「党公認伝記作家は、一九三一年八月、江西ソビエト区に到着直後、瑞金県の党書記に任命されたという。この主張は根拠がないし、実際ありえない。もしその地位にいたのなら、一九三一年一一月に瑞金で開催され、中華ソビエト共和国の樹立を宣言した第一回ソビエト区代表大会の長い代表者名簿に、名前が載っているはずである」。「新資料にもとづくわけではないが、三一年一二月もしくは三二年一月に瑞金県の党委員会書記となった可能性が考えられる」(訳書九〇ページ)。鄧小平は一九三一年八月、金維映、余沢鴻らとともに瑞金に向かった。瑞金に着くと、鄧小平一行は中共贛東特委書記謝唯俊と会った。「そこで皆が協議して鄧小平を推薦して中共瑞金県委員会書記を担当させた」。これは中共江西省委員会党史資料徴集委員会編『鄧小平在江西的日子』(中共党史出版社、一九九七年)所収の余伯流論文からの引用である(同書一〇三ページ)。このとき瑞金はどのような状況にあったのか。「一九三一年五月、(AB団ではなく、ここでは社会民主党に対する)粛清運動が瑞金に及んでいた。瑞金の粛清運動の指導者は県委員会書記兼粛反委員会主任李添富であった」。「県ソビエト政府と県総工会という二つの単位の80%の幹部が逮捕され、これらの幹部は10日以内に大部分が社会民主党分子として処刑された」。「原県委員会書記桔希平、県ソビエト主席蕭連彬ら重要幹部も殺害された」「かくてほとんど毎日誰かが処刑され、時には一日で五〇~六〇人、少なくとも一〇~二〇人が処刑された」「鄧小平が瑞金県委書記を引き継いだ時、何人が処刑待ちであったか、確かな統計数字はない。しかし数百名いた可能性がある」(余伯流論文一〇三~一〇四ページ)。鄧小平が瑞金に着いたのは、まさに国民党の第三次包囲討伐のなかで瑞金では凄惨な仲間殺しの最中であった。鄧小平は一カ月余、状況を調べたのち、李添富らを逮捕して殺害行為をやめさせ、逆にそれまで拘留されていた大量の幹部を釈放し粛清を終わらせたのであった。(余伯流論文一〇四~一〇五ページ)。こうして初めて九月に錦江中学で瑞金県第三次労農兵代表大会を開いたのであった。この間の事情を余伯流論文は鄧小平「我的自述」、楊世珠「瑞金糾正粛反和査田運動的回憶」、鄒書春「鄧小平在蘇区瑞金」、『瑞金県組織史資料』などに基づいて描いている。さて楊炳章はこのような当時の瑞金の事情にまるで無知であり、党書記就任が「八月ではなく、一二月だ」などと根拠不明な憶測を書いている。もし楊炳章の説が正しいならば、九月中旬に瑞金で第三次反「包囲討伐」勝利大会を主宰したのは誰か、九月下旬に瑞金県第三次労農兵代表大会を開いた主宰者は誰か、答えて欲しいものだ。鄧小平の前任者は前述の通り李添富書記だが、まさか彼がこれを主宰したというのか。実は楊炳章の本には、李添富、そして余沢鴻の名さえ登場しないのだ。そのような無知に基づいて楊炳章は身勝手な憶測を重ねている。これには驚かされる。
・李明瑞の粛清問題
楊炳章はいう。「李明瑞の粛清に直接的ではないにしろ補助的にかかわっていた可能性は高い。半世紀後の八四年、李の名誉回復が取り沙汰されると、李明瑞は左右江ソビエト区の功労者の一人というのがふさわしいと鄧小平はすまなそうに指示を与えたのだった」(訳書九〇ページ)。該当箇所は以下の通り。There are several documents suggesting that Deng sided with the security agency---rather than standing against it, as his own daughter claims---in attempting to eliminate Li and other former KMT officers from October 1929 up to June 1930. In his April 29, 1931, reports to the Party Center, Deng strongly blamed the "old foundations of KMT soldiers" for the failure of the Seventh Army. In all liklihood, Deng himself was involved, supportively if not directly, in the purge of Li Mingrui. Half a century later, in 1984, when this case was brought up for rehabilitation, Deng instructed apologetically, "It would be appropriate to say that Li Mingrui had been one of the founders of the Left and Right River Soviet."(p.69).
訳文の「すまなそうに」の原文はapologeticallyであるから、この訳語は「弁解がましく」とすべきであろう。問題はこの記述の典拠である。(20)班鴦「鄧小平同紅7軍関係考」参照。「鄧小平が紅7軍の粛清にかかわっていたことを示す歴史文書がたくさんある」と注記している。念のために、原注をみておく。(20)See Ban Yang, "Verification of Deng Xiaoping's relations with the Seventh Red Army." There are numerous historical documents that indicate that Deng might have been more actively involved in the Seventh Army purge. If proved true, that would have serious implications for Deng's reputations and would also be of considerable interest to us. (p.295).
比較して明らかなように、邦訳は下線部を訳していない。仮に訳せば「もし記述が真実であると証明されるならば、鄧小平の名声にとって重大な意味をもつであろう。それはまたわれわれにとっても相当に関心の深い事柄であろう。」楊炳章の書く通りだ。これは実に重大な記述である。楊炳章はここでも本文では、真実らしく書いて鄧小平に嫌疑をかけて、注釈では逃げを打っている。翻訳は、この部分を省略したことによって、「鄧小平が紅七軍の粛清にかかわっていたことを示す歴史文書がたくさんある」と、強い断定のニュアンスになっている。訳者がなぜ省略したのか。その真意を知りたい。これは鄧小平論の根幹にかかわる。決して小さなエピソードではない。班鴦「鄧小平同紅七軍関係考」(『探索』104、105号、1992年)なる米国で発行されたらしい華文雑誌は見ていないが、これは政治運動のプロパガンダ雑誌ではないのか。まだ確認はしていないが、目見当でいえば、元来魏京生が創刊し、北京で発禁処分を受けたのち、米国で再刊したものではないか。これ以上の憶測は控えるが、他の論文で引用されたのを見たことはなく、疑問が残る。楊炳章の問題の多い記述は、この『探索』を典拠としており、政治パンフを「学術書」に使うのは、よくない。資料批判が必要ではないか。
ここで李明瑞(一八九六~一九三一年一〇月)の経歴を紹介しておくと、一九一八年韶関の求軍講武堂に入学。北伐戦争時に国民革命軍第7軍旅団長、師団長。一九二九年国民党政府広西綏靖司令。同年九月蒋介石反対闘争を組織し、三〇年龍州蜂起に参加する。同年中国共産党に入党。その後、中国工農紅軍第七、第八軍総指揮、紅七軍軍長。三一年四月紅七軍を率いて中央根拠地に入る。第二次、第三次反「包囲討伐」の戦闘に参加。三一年一〇月、江西省于都で殺害される(李盛平主編『中国現代史詞典』四六九ページ)。問題は李明瑞の粛清と桔弌峠の関わりである。楊炳章は「直接的ではないにしろ補助的に」と関わっていたという。「補助的」とはなにか、その内容を説明することなしにこのような書き方をするのは、真意を疑われる。李明瑞の名誉回復は楊炳章のいう「一九八四年」ではなく、「一九四五年の延安七回大会」である。ここに重大な事実誤認がある。さらに、李明瑞を説得し、中国共産党に入党させたのはほかならぬ鄧小平である。当時の李立三による中央は「現地から彼を追放せよ」と命じていたが(「中共中央給軍委南方弁事処併転7軍前委指示信」『左右江革命根拠地』(上)三一五ページ)、そのような党中央の事情を知らずに、現場の鄧小平は同志として迎え入れたのであった(毛毛『わが父鄧小平』1-三一〇ページ、三五〇ページ)。この事実から明らかなように、鄧小平が現場の判断で李明瑞を同志として迎えたにもかかわらず、極左派の党中央によって李明瑞が粛清された。その名誉回復は延安時代にすでに行われていたのである。これらの事実を無視して楊炳章は勝手な憶測を書き散らしているわけだ。みずから説得して入党させた旧国民党軍の将校、同志として一連の行動を共にしてきた司令官の粛清に手を貸す、というのは、重大な事実である。鄧小平をそのような人物とみるか否かは、「鄧小平伝」の人物論の根幹に関わるのであり、具体的な論拠をなにも挙げることなしに、決定的な論断を下す楊炳章の本は、「学術的」態度からははるかに遠いし、鄧小平論としても致命的な欠陥をもつものと評さざるをえないのである。
・政治委員の肩書き問題
楊炳章はいう。「いまある共産党の記録によると、鄧小平は広西蜂起時には政治委員ではなかった。ほとんどの伝記作家が政治委員だとしているが、実際は二九年一二月一一日成立の紅七軍にも、三〇年二月一日成立の紅八軍にもそのような職務はなかった。当時あったのは、政治部主任であり、第七軍は陳豪人、第八軍 は兪作豫だった(八二~八三ページ)。事実の経過はどうか。1929年10月30日、中共広東省委員会は「中共広西前委」の設立を決定し、鄧小平を前委書記、すなわち前線委員会書記に任命したこの「中共広西前委」が後の「紅七軍前委」である(「中共広東省委通知」29年10月30日)。11月初め中央は左右江地区の武装蜂起を許可するとともに、紅七軍、紅八軍の編成番号が与えられた。12月11日、広州蜂起二周年を記念して紅七軍が正式に誕生した。張雲逸軍長、軍前委書記鄧小平(のちに軍政治委員を兼任)、陳豪人が軍政治部主任であった(『左右江革命根拠地(上)』15~16ページ)。では鄧小平が軍政治委員を兼任したのはいつか。「中共中央給広東省委転七軍前委的指示」(1930年3月2日)の末尾に以下の記述がみられる。「軍に軍政治委員を設けるべきである。小平を軍部政治委員に指定する」(『左右江革命根拠地(上)』248ページ)。ここで明らかになったように、鄧小平は29年10月に紅七軍前委書記になり、その後30年3月2日付けで軍政治委員制度の新設に伴い、これを兼任したのである。なお、手元の国防大学編『中国人民解放軍戦史簡編』(解放軍出版社、一九八六年)四七ページを参照してみると、一九二九年一二月一一日、百色蜂起後、広西警備第四大隊と教導隊の一部が紅第七軍に改編され、張雲逸軍長、鄧小平前敵委員会書記兼政治委員就任と書かれている。当時の資料および解放後の資料からして、鄧小平がまず紅七軍前委書記になり、その後政治委員も兼務したことは疑いのない事実である。したがって、楊炳章の書き方はきわめてミスリーディングである。「紅七軍創設当時、政治委員のポストはなく、陳豪人が政治部主任を務めたこと」は事実だが、鄧小平はその上役の前委書記であり、政治部主任の上に政治委員ポストが新設されたときにこれに就任したのだから、陳豪人の上司にあたる。したがって「実際は欽差大臣(勅使)のように振るまった」(訳書83ページ)のは、まさに上司としての行動なのである。楊炳章は妙なレトリックを使い、却って実像を混乱させているといわざるをえない。これは読者を混乱させ、訳者はこれに振り回されて誤訳することになる。
・一九五二~五六年の活動
一九五二~五六年の鄧小平の活動を総括して楊炳章はいう。「鄧小平の着実な昇進には、一つ、あるいは二つの主要因がある。毛沢東の独裁力の影響と、戦争初期のような建設的任務を通してではなく党内部の権力闘争を通してその影響を利用したこと。実際、この二つは相互依存的効果があったのである。毛沢東の独裁的権力が鄧小平のみごとな昇進を可能にし、鄧小平の急速な昇進が不幸にも毛沢東の帝国支配と、狂信的なユートピア路線を強化したのである」(訳書一五九ページ)。ここで「戦争初期のような建設的任務」とは、文意不明だが、それはさておくとして、このような評価は妥当であろうか。五二~五六年に鄧小平は確かに地方指導者から中央指導者へ昇格したが、その「主要因」を(1)毛沢東の独裁力の影響と、(2)党内部の権力闘争を通してその影響〔毛沢東の独裁力〕を利用したこと、にあるとする解釈は妥当であろうか。まず前者だが、五六年九月の第八回党大会までは、基本的に集団指導体制が守られていたとみるのが党史上の常識である。この期間について「毛沢東の独裁力」を強調するのは当たらない。また鄧小平は功績の大きかった第二野戦軍の政治委員として数々の戦果をあげているのだから、中央指導者への抜擢は自然であり、毛沢東との個人的関係をここで強調するのは妥当ではない。次に、この期間に鄧小平が昇進し、地位を固めた理由を「党内部の権力闘争を通してその影響を利用したこと」にあるとする解釈も説得的な説明とはいいがたい。高崗・饒漱石問題は確かに権力闘争であり、鄧小平が問題解決に貢献したことは確かだが、この事実をとらえて「権力闘争を利用した」という説明は無内容である。「毛沢東の独裁的権力が鄧小平のみごとな昇進を可能にし」たのではなく、鄧小平の「戦果」が昇進させたのだ。「鄧小平の急速な昇進が不幸にも毛沢東の帝国支配と、狂信的なユートピア路線を強化した」というのも、当たっていまい。毛沢東の急進路線が明確な形をとって現れるのは、五七年六月の反右派闘争以後である。むろん五二~五六年段階においても、その萌芽がないというわけではないが、その萌芽だけを強調し、反右派闘争後に顕在化する毛沢東の独裁現象発現時期を無理に早めるだけ、鄧小平の昇進と無理に関連づけようとするだけの「新解釈」は、中国現代史の解釈として問題が残るだけでなく、鄧小平論としても、一面的にすぎる人物像を描く結果になるおそれがある。楊炳章が一五八ページで書いているように、八回大会の中央委員選挙で鄧小平は朱徳や周恩来を抜いて第四位の得票数を獲得した。これは大会に出席した代表たちが選んだものであり、毛沢東の決定ではない。このような党内世論を踏まえて、毛沢東は彼を政治局常務委員の候補者とし、総書記にも指名したのである。この間の事柄をすべて「毛沢東の独裁力」で説明しようとするのは、過度の単純化であり、説得力を欠くものといわざるをえない。
・楊炳章の心理学(1)
楊炳章は鄧小平の心理を忖度してこう書く。「(鄧小平は)毛のおかげでとんとん拍子で出世したから、自分の才知や良心を犠牲にしても、毛についていくよりほかはない。左か右を選ばなければいけないなら、毛を喜ばすためだけに、左を選んだろう。この当時の彼の心理状態と行動は、偉くなりたてで、やる気十分だったといえよう」(一六二ページ)。これはほとんど三文小説の心理描写である。ここで「鄧小平」を「楊炳章」に、「毛沢東」を「ロス・テリル」に置き換えてみよう。楊炳章はおそらく自分の尺度で鄧小平の「心理と行動」を描写したつもりらしいが、そこには大人の風格はひとかけらもない。「燕雀いずくんぞ、鴻鵠の志を知らんや」と慨嘆するほかない。歴史家なら歴史家らしく、政治学者なら政治学者らしく分析してほしいものだが、楊炳章の本にはまるで欠けている。
楊炳章はいう。「ハンガリーとポーランドで起きた共産党政権にたいする大衆抗議に呼応するかのように、毛沢東はまず双百政策を掲げ、百花斉放、百家争鳴、中国人民が自由に意見や不満がいえると叫んだ。毛はさらに党内の整風運動、党幹部の欠点や誤りを見つけて正すことを始めた。第八回党大会で劉少奇は整風運動について何も言及しなかったし、鄧小平もそれにはたいした注意を払わなかった」(一六三ページ)。ハンガリー動乱は一〇月二三日~一一月一七日(ナジ逮捕)である。ポーランドのポズナニで反政府暴動が起こったのは、これに先立つ六月二八日~三〇日である。56年4月ではない。毛沢東が百花斉放を提起したのは、さらに前の五月二日最高国務会議における講話である。このあたりの経緯に無頓着に、「呼応するかのように」と書いているのは解せない。「毛はさらに党内の整風運動を始めた」のに対して、劉少奇は「党大会で言及せず、鄧小平も注意を払わなかった」という記述は、矛盾だらけである。中共中央が整風運動についての指示を出したのは、翌五七年の四月二七日であることは楊炳章が前掲引用の直後に書いている通りである。その半年前に開かれた劉少奇がこの指示に言及しないのは当然ではないか。また鄧小平が「たいした注意を払わなかった」という記述も理解に苦しむ。実に粗雑な書き方が随所で行われていて、到底素直には読めない本だ。
・『鄧小平文選』と一九五八年の講話
楊炳章はいう。「五八年に鄧小平が行った演説は、『鄧小平文選』にほとんど入っていない。大躍進中の彼の政治活動の様子は記録から明らかだが、本人の考え方は分からない。党のトップ指導層に属し、毛沢東が強硬な政策を押し進める横で、めだった存在に違いない。政府公認出版物から大躍進期間中の講話、演説だけをきれいに削除したこと自体、明白な証拠になっている」(一六七ページ)。五八年に鄧小平が行った演説は、『鄧小平文選』に「ほとんど入っていない」というよりは、一篇だけ収められているとより具体的に書くのがよい。それは五八年四月七日に中央書記処会議で行われたもので、内容は教育問題である。『文選』にはこれしか収められていないのは事実だが、ここから「彼の政治活動の様子は記録から明らかだが、本人の考え方は分からない」と書くのは真意不明である。「記録から明らか」ならば、「本人の考え方」を分析できるはずである。いわんや楊炳章は三文小説的「心理解説」がお得意ではないのか。たとえば『毛沢東選集』には限られた著作しか収められていないが、建国以前は日本で編集された『毛沢東集』によって、建国以後のものは『建国以来毛沢東文稿』および『毛沢東文集(6~8巻)』によって、基本的にすべて読める条件が整っている。鄧小平についての『文稿』のようなものは未だ出ていないが、一九五八年の鄧小平の活動と発言を調べるには、いくつかの方法がある。まず『新華月報』の前身たる『新華半月刊』があるし、『人民日報』のマイクロフィルムあるいは現物が挙げられる。ここで特筆すべきは、『人民日報』が創刊以来のCD-ROMを発売している事実である。『文選』に収められていないから読めないといった言い訳は、不真面目な学生の「逃げ口上」以上のものではない。まともな研究者なら恥ずかしくていえないセリフであるはずだ。この事実をとらえて、「政府公認出版物から大躍進期間中の講話、演説だけをきれいに削除したこと自体、明白な証拠になっている」とまで書くのは、ほとんど三百代言である。『鄧小平文選』はなるほど「政府公認出版物」だが、そこに五八年の発言を一篇しか収めなかったことは、編集方針、編集意図に属する事柄である。それを分析するのは当然だが、それを怠ったまま「明白な証拠」と書くのは、真意不明というほかない。
・土法製鉄運動について
「一九五九年四月になって、中央書記処は鄧小平の掛け声でいっさいの資源を集結する土法製鉄運動を始めることを提案した」(一六八ページ)と書くのもおかしい。一九五八年の鉄鋼生産量を五七年比倍増の一〇七〇万トンと決定したのは、北戴河で開かれた政治局拡大会議であり、五八年八月一七日である。翌五九年四月二日~五日に八期七中全会が開かれ、五九年の国民経済計画案が決定された。続いて四月一八日から二八日にかけて二期全人代一次会議が開かれ、周恩来の「政府工作報告」を採択し、同時に国務院の提起した五九年国民経済計画草案も採択した。ここで採択された数字、たとえば鉄鋼生産量は「五八年の倍増」という到底実現不可能なものであった。事柄の経緯は以上のごとくであり、「鄧小平の掛け声」で「提案された」のではない。鄧小平は総書記として、全人代決定を「実現するための具体化」に取り組んだのである。この経緯は、楊炳章がこの項目を書くために用いている資料(房維中主編『中華人民共和国経済大事記』の二二〇、二二三、二四四ページ)に詳しく書いてある。一連の経緯を無視して「断章取義」を行うのは許されない。大躍進において鄧小平が毛沢東の冒進を支えたことは明らかである。それゆえにこそ、彼は調整期に率先して「白猫黒猫論」を唱えて、経済復興に取り組んだのだ。そのあたりの常識的知見に対して、一部を誇張してみせることによって、鄧小平の政治的伝記なるものを書いたところで、それが「学術的著作」たりうるかどうかはなはだ疑わしい。
・中ソ論争について
「つき詰めてみるに、中ソ論争での鄧小平の立場は、好戦的な国家主義、愛国主義と分析できる。当時の状況下で、毛沢東のご機嫌をとることに終始した結果といえよう。鄧の態度がラジカルになればなるほど、ソ連との議論が激すれば激するほど、毛沢東はご機嫌で、鄧の政治的地位は安泰だった。マルクス・レーニンの著作から引用したにもかかわらず、後にも先にもそれを熱心に読んでいないし、読もうともしていない」(訳書一八三ページ)。
原文は以下の通り。In the final analysis, one may justify Deng's position in the Sino-Soviet polemics as a kind of Chinese nationalism or patriotism or even chauvinism. without getting too far-fetched, however, I would simply ascribe Deng's performance to his personal desire to please Mao under the current circumstances. The more radical his position and the harder he argued with the Russians, the happier the chairman and the safer Deng's own political position. As for those works of Marx or Lenin, Deng had never cared to read them before, nor did he ever care to do so afterward. (p.158).イタリックの部分は「ある種の中国ナショナリズムあるいは愛国主義、いや排外主義」である。訳者は「好戦的な国家主義、愛国主義」と訳したが、どこから「好戦的」という形容句が出てくるのであろうか。次の下線部は、「マルクスやレーニンの著作についていえば」であり、「引用云々」とは書かれていない。楊炳章は「(マルクスやレーニンの著作を)後にも先にもそれを熱心に読んでいないし、読もうともしていない」と断定しているが、そのような断定がなぜできるか不可解だ。
・林彪事件の帰結
1966年5月の政治局会議での林彪の演説を読んで、毛はもっと早く気づくべきだったと考えた。林彪は、「奴らはわれらを殺そうとしている。こちらが殺さなければいけない。もし殺さなければ、殺されるだろうから」「中国史は、ろうそくの炎と剣の影に彩られたクーデターの歴史だ」と不遜にもいった。毛沢東は、彭真も楊尚昆も、劉少奇も鄧小平をも嫌ったが、林彪の演説を聞いて、どう思ったのだろう」(197ページ)。下線部は「毛は憂慮するようになった。もっと早くから憂慮して当然のことだが」の意である。次は「いま林彪将軍が(クーデタを)宣言するのを聞いたあとでも、やはり鄧小平ら実権派を嫌っていたのだろうか」の意である。
原文は以下の通り。Reading through Lin's speech at the Politburo conference of May 1966, Mao grew worried, as he certainly should have. The chairman might indeed have disliked Peng and Yang, Liu and Deng, but what about now hearing Marshal Lin declare, "These SOBs want to kill us, and we must kill them. If we don’t kill them, they kill us," and listening to him lecture that "Chinese history is nothing but a history of coup d'etat, of candle flashes and knife shadows"! (p.170).
「鄧小平がまず口にした言葉は、天が呪って林彪を殺した」であった(一九八ページ)。It was reported that, when informed of Lin's fate, Deng's first words were, "Heaven damned Lin to death!" He promptly wrote a letter to Mao on November 15, 1971.(p.171). この時の鄧小平のセリフはかなり有名である。「林彪不死、天理難容」である。わたしはかつて「林彪死せざれば、天理容(ゆる)し難し」と訳した。このあたり、訳者の弁解を聞きたいところである。原文は明らかに中国語だ。楊炳章が英語に訳した。それを加藤が日本語に訳する。いわゆる重訳はやはり極力避けるべきではないか。林彪事件についての楊炳章の注釈が気になる。「林彪の飛行機が燃料不足で墜落したのか、周恩来の命令で撃ち落とされたのかが疑問である。いろいろいわれているが、私の判断では後者の可能性が強い」(三四三~三四四ページ)。
原文は以下の通り。The real question regarding the Lin Biao affairs is whether Lin's plane crashed for lack of fuel or was shot down on orders from Zhou. Despite all the popular