少し前に、『譲子弾飛(弾丸を飛ばせ)』という中国映画の感想を書き、その際最後の方で、同じ監督の『鬼子来了(鬼が来た)』という映画に少し触れた。
(以前の記事:
http://koharu65.exblog.jp/17547247/)
これは2000年公開の中国映画で、カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを受賞した作品である。監督は姜文。
舞台は1945年、終戦間近の中国大陸。素朴で善良な人々が住むある小さな村に、闇にまぎれて現れた男が、ひとりの日本兵の捕虜を、数日という約束で村人に預ける。ところが約束の日を過ぎても男は戻らず、村人たちは捕虜の扱いに困ってしまう。
自分たちの食料すらおぼつかない中、やっかい者でしかない捕虜を殺すか殺さざるべきか。村人たちは何日も侃々諤々の議論を交わす。日常生活を営む中で、目の前の一人の人間を殺すことがどんなに困難なことであるか。村人と日本人捕虜とのユーモアたっぷりの奇妙なやり取りがしばらく続く。
ところが、日本軍の部隊の隊長が舞台に現れると、この友情物語はたちまち殺戮の場面へと変容する。
そして終戦後、支配層が国民党に取って代わられると、その国民党のリーダーの命令によって、公開処刑が行われる。首を切られるのは、日本の部隊に虐殺された村人の生き残り。男は復讐に駆られ、国民党に捕らわれた日本兵の捕虜を次々と切り殺し、捕虜を殺した罪で公開処刑されるのだった。
日本軍を駆逐した中国の部隊を必ずしもヒーローとして描いていないところからして、この映画は確かに単純な反日映画ではない。「鬼」というのも、日本人だけを指しているのではない。おそらく「鬼」というのは、日常生活で人間と人間との間に自然に醸し出される情を踏みにじるような非人間的な存在を象徴しているのだと思う。
ラスト近く、公開処刑の場面では、同胞の首が切られるというのに、見物に集まった中国人たちの好奇心いっぱいの、にやにやした顔が映し出される。ここで私は魯迅を思い浮かべた。これは100年も昔に魯迅が指摘した人間の愚かさではなかったか。魯迅はペンをもって愚かな人間の精神を変容せんとした。この映画には魯迅ほどの切実な思いが込められているだろうか。