デモ
(2011-08-23 06:16:15)
下一个
数日前まで厳しい暑さが続きバテ気味だったので、じっくりと何か書くことができなかった。ここ2,3日は、突然の秋の訪れかと見紛う涼しい日がやってきて、過ごしやすく、空気が気持ちよくて、パソコンに向かう気になどなれない。
どうやら、外的要因は、書く気になるかどうかの内的欲求とはあんまり関係がないらしい。
寝室には、図書館から借りた本や本屋で買ってきた本が5,6冊、表紙を開かれもせずに、積まれたままになっている。
そんなふうな状況なのだけれども、今日、興味深いニュースを目にしたので、久しぶりに書きたくなった。簡単に。
昨日、22日、フジテレビ前で、フジテレビの韓流偏重の番組作りに対する抗議のデモがあったそうだ。抗議の内容が正当なものかどうか、私には判断する材料がないので、内容については論じない。
ただ、どうしてこういう動きが生じたのか、とても奇妙に感じたし、興味を持った。大手の新聞やテレビ局が総じてこれを取り上げていないのも、不思議に思った。反原発デモに対する対応と似ているような気がする。
原発事故以来、国民の間で、既存の権力や勢力、組織に対する不信感が広まっているのではないかと思う。政府に対する不信感は明らかすぎて言うまでもないが、事故後、政府から与えられた情報をただ流すだけの提灯持ちのマスコミに対する不信や不満もふつふつと溜まっているのではないかと思う。
マスコミュニケーションの本来の意味は「大众の情報伝達_」である。けれど、今のマスコミがこの本来の意味での大众の情報伝達手段としての役割を果たしているのかどうか。それを考えると、テレビ局が実際に大众から自然発生的に起こる流行ではなく、自らの利益のために流行を作りあげていることに対する憤りや反感、という今回のデモの動機となる感情には共感できるものがある。(実際にそういうことがあるのかどうかは証明されていないけれども、うわさが真実味を帯びるのは、やはりテレビ局に対する大きな不信感が根底にあるのだと思う。)
ネットの呼びかけから現実の行為へと広がるこのような動きを(その主張や行動が正しいかどうかは別にして)、既存の大手メディアは黙殺する。その主張が正しいか間違っているのか、公に知らしめて俎上に上げることをしようとしない。自社の利益という経済的な論理を基礎として、大众の欲望を操作できるのだというメディア(特にテレビ)の驕り。大众(おそらくその多くは若者)の声が反映されるのはネット上だが、それはなかなか現実に反映されない。
メディアがメディアとしての役割を果たそうとしない、そのことに対する怒りが、今回のデモの根源にあるような気がしてならない。
私は、デモを起こす大本の感情はそこにあると思うし、その感情自体は真っ当なものだと思うのだけれども、一方で、そういう社会に対する本来は真っ当な怒りやエネルギーが別の方向に誘導されたり利用されたりすることを危惧する。
韓流ドラマやK-POPへの偏重に対する憤りはひとつの具体的な事象であって、本当は民众の声を拾わないメディア、文化を育成したり創造したりする力のないメディア界に対する不満や反感が元になっていると、私は思う。
しかし、社会への不満や反感が、公の目に晒さらされず客観的に議論されることもなく閉鎖的な場だけで熟成されるならば、マグマのように溜まる感情は受け皿を求めて流れ出す。例えば、愛国主義だとか排外主義だとか、言われるものに。