今、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子著、朝日出版社)という本を読んでいて、おもしろい箇所に出会った。
フランスの思想家ルソーがこんなことを考えていたそうだ。
(ルソーは)相手国が最も大切だと思っている社会の基本秩序(これを広い意味で憲法と呼んでいるのです)、これに変容を迫るものこそが戦争だ、といったのです。
相手国の社会の基本を成り立たせる秩序=憲法にまで手を突っ込んで、それを書きかえるのが戦争だ、と。とても簡単にいってしまえば、倒すべき相手が最も大切だと思っているものに対して根本的な打撃を与えられれば、相手に与えるダメージは、とても大きなものになりますね。
著者の加藤先生は言う。ルソーは18世紀までの人なので、それ以降の戦争は予測不可能だったはずなのに、ルソーの述べたことは19世紀、20世紀、そして現代の戦争にもぴったりと当てはまるのだと。
第二次世界大戦の終結にあたっては、敗北したドイツや日本などの「憲法」=一番大切にしてきた基本的な社会秩序が、英米流の議会制民主主義の方向に書きかえられることになりました。ですから、歴史における数の問題、戦争の目的というところから考えますと、日本国憲法というものは、別に、アメリカが理想主義に燃えていたからつくってしまったというレベルのものではない。結局、どの国が勝利者としてやってきても、第二次世界大戦の後には、勝利した国が敗れた国の憲法を書きかえるという事態が起こっただろうと思われるのです。
そこでアメリカ=勝利した国によって書きかえられる前の戦前の日本の憲法原理は何だったというと、それは、「国体」=「天皇制」だったと、著者は語る。
私はほおっと思った。なぜなら、私の父が時々ぼやくからだ。憲法憲法って言うが、アメリカがつくったものじゃないか、と。そのたびに私は、どの国が作ろうと、いい憲法ならいいじゃないかと、思うので、父の言い分がよく理解できなかったのだけれども、日本が戦争に負けて“最も大切と思っているものに対して根本的な打撃を与えられ”、社会の基本秩序が無理やり変容させられた、ということがいまだに強く怨念として残っているということに気がついたのだった。
怨念は時とともに、そして世代交代とともに、いずれ忘れ去られていくのだろうか?それともいつまでも受け継がれ、手放さざるを得なかった大切なものを密かに胸に抱き続けていくのだろうか?
この本はまだ読み終えてないので、まだおもしろいことが出てくるかもしれない。
2009年初版で、当時、良書として話題になったらしい。知らなかった。私はどうも時流に乘り遅れがちである。