『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ著、ハヤカワepi文庫)という小説を読んだ。この小説を原作にした映画が公開されているそうで、新聞に載っていたその映画の評がたまたま目に留まり、映画よりも原作の小説の方に興味を持った。作者が日本人名なのにカタカナであることや舞台がイギリスであることとか、ちょっと不思議に思ったからだ。
新聞の評も、主人公たちの諦観を東洋的な思想と絡めて、作者が日本人であることとの関係を匂わせていた。
文庫本の著者紹介には、「五歳のとき、海洋学者の父親の仕事の関係で渡英。以降、日本とイギリスのふたつの文化を背景に育つ」と書いてある。しかし調べてみると、彼は五歳のときからずっとイギリスで育ち、日本については幼い頃の思い出しかなく、その思い出をもとにして日本という国のイメージを頭の中で作ってきたという。だから彼のことは「日本生まれのイギリス人作家」と捉えた方がよいかもしれない。
さて、この小説は、
わたしの名前はキャシー・H。いま三十一歳で、介護人をもう十一年以上やっています。
という自己紹介から始まる。物語の語り手キャシーは、幼年時代から“ヘールシャム”というある特殊な寄宿学校のようなところで暮らしていた。その学校の仲間であるキャシーとトミー、それからルースの3人の登場人物を中心として、子どもたちの学校での生活と、思春期を経て、卒業後の暮らしが語られていく。
この子どもたちと学校はおおっぴらに語られないある秘密を抱えていて、それがミステリ的な要素になっているので、「その秘密が何か」ということを書くことは一種の「ネタばらし」となってしまうので、本の紹介などではその点に配慮されているらしい。しかし作家本人は、これはミステリ小説ではないし、「そんなことは本書の小さな一部にすぎないから、なんなら本の帯に『これは…についての物語である』と書いてくれてかまわない。」と言っている。(文庫本訳者あとがきより)
実際、「秘密」はすでに物語の第一ページ目の「介護人」や「提供者」などの単語により暗示されていて、勘のいい読者ならもうここでだいたいの見当はつくだろう。だから私がここでそれをはっきり書いたからといって作品の鑑賞には何の支障もないはずだ。しかし、私はそれを書くのをためらう。そしてその躊躇は、これからこの小説を読む読者への配慮から生じるものではなく、それをはっきりと言葉にして語ってしまったら、小説から受け取った何か大切なものを失ってしまうような気がするからである。
キャシーを含めた子どもたちは始めの頃、その秘密を知らない。しかし、ある時、ふと考えるのだ。私たちは本当はずっと昔から“それ”を知っていたような気がする、と。自分たちが小さい頃から教師たちの言葉の端々にそれは織り込まれていて、それとははっきり意識しないものの、実はずっと昔から知っていた事実だったような気がする、と。
キャシーの視点で小説を読み進めるに従って、読者である私もまた彼女の成長の度合いとともに、語られない秘密を子どもたちと共有するかのような気持ちにさせられていった。だからこそ、その秘密を暴きたくない。秘密が暴かれることによって子ども時代の大切な輝きがたちまち色褪せ消えていってしまうような気がして。
直接的な言葉によって語ることがためらわる受け入れがたい运命の秘密。それはもしかしたら、この小説内の特殊な環境、特殊な設定だけのものではないのかもしれない。私たち普通の状況下に生きる人間にも通じるものなのかもしれない。
受け入れがたい終わりに耐えるために、人は、きらきらした思い出や美しい風景や音楽、それから“本物の愛”を必要とする。そしてキャシーがよい介護人であり得たのは、幸福な子ども時代を培ってきた様々な宝物をいつまでもしっかりと胸に抱いて放すことがなかったからではないだろうか。