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国家の存在の意味

(2011-03-20 22:42:38) 下一个
 
 夫は、政府の言うことは信用するな、と言う。これは彼の身についた習性だ。
 私にはそういう習性はないけれど、それでも、「大丈夫です」「人体に影響ありません」と盛んに喧伝される言葉は、空言に聞こえてしかたがない。
 「一年間、食べ続けても大丈夫な量です。」
という言葉が、いったい何を指し示すのか?これを安全宣言と受け取ることのできる人はなかなかいないだろう。この言葉がエクスキューズであることは誰だって感じ取っているはずだ。
 報道では常に、「汚染されていることは確実ですが、ただし、…」という主文が省略される。

 自分勝手な話だけれど、もし私が、北関東に住んでいたら、今ごろ中国にいただろう。東京に住んでいたら、パスポートと航空券の手配をしているかもしれない。ここ、静岡にいてさえも、一人だったら、しばらく国外に出ることを可能性として考える。これはあくまで仮定の話で、距離によって切迫感が異なるということと、逃げる場所があるのならば誰だって逃げたいんだと言いたいのであって、普通は、そう簡単に逃げることはできない。20km圏内の人たちは、断腸の思いで、家屋や生活を手放してきている。
 いくら放射能の脅威に怯えようとも、この場所(具体的な場所ではなく、抽象的な概念としてのこの場所)で生まれ、この場所で育ち、この場所に家のある私たちは、これからもこの場所で生きていかなくちゃならない。汚染された地域を含んだ(抱えた)日本という場所で生きる覚悟をしなきゃならない。
 原発からの放射能流出は、たとえその直接の原因が天災だったとしても、そういう危険な存在を今まで許してきた私たち、みんなの責任だ。国民全員でその責任を引き受けていかなければならない。そういう覚悟をしなければいけない。

 日本の政府には果たしてそういう覚悟があるのだろうか?
 これからも長期的に汚染物質の問題を抱えていかなくてはならない現実を見すえて、その上で、どうしたらいいかってことを考えなければいけないんじゃないだろうか。大丈夫です、安心してください、と言うばかりでは、この厳しい現実を日本全体としてどう乘り越えていくべきか、乘り越えていかなくっちゃならないかという姿勢を、国民に向かって示すことができないんじゃないか。
 日本の政府が、この事態をどう直視し、どう判断し、どう覚悟し、どう決意し、どう解決し、どう乘り越えようとしているのか、私にはその「顔」がちっとも見えない。だから怖くてしかたがない。

 以前、国家というのは何のためにあるのだろうと考えたことがある。国家は、人が人を殺してはいけないというルールの外にある。死刑も戦争も国の命令によってのみ、遂行可能だ。これはどうしたわけだろう?国家だって人としてのルールに従わなきゃいけないんじゃないか、どうして国家には殺人が許されるのだろうか、その時は、いくら考えてもわからなかった。
 しかし、今、わかったことがある。私たちは国家に命を預けているのだということ。国家は国民の命を掌握しているのだということ。国家権力には、国民の生命を与奪する権利が暗黙のうちに含まれているのだということ。国家とは、そもそもそういう存在でしかあり得ないのだということ。
 私が受けてきた教育の中では、国家権力というものがまるでファシズムと同義語のように語られ、忌み嫌われてきたように思う。けれど、こういう情況で考えるのは、国家がその権力を振るわないことによって、奪われる生命もあるのではないかということだ。

 国家とは何のためにあるのか、軍隊とは何のためにあるのか、軍隊のひとりひとりの命が大事だと言って、戦地に赴かせることができないなんてあり得るのだろうか。
 一人でも多くの人の命を助けるために、どんなことをしてでも真っ先に現地へ軍隊なり救援隊を向かわせる決然とした姿勢も示せずに、隊員の安全を再確認してからの対応なんて口先だけの人道主義を信じることができるだろうか。



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