老人と私
(2009-07-07 18:43:02)
下一个
犬の散歩に出ると、時折見知らぬ人と会話する機会を得る。
先日、夕方になって犬と土手の上を歩いていると、向かいからやって来たおじいさんに話しかけられた。
「それ、スピッツかね?」
「珍しいね。昔はよく見たけど。今はほとんど見かけないな。」
ブルージーンズに白いTシャツ、Tシャツの上に空色の半袖のスタンドカラーの上着を羽織っている。背は低いが、腰と背骨がしゃんと伸びて、顔いっぱいに深い皺が刻まれている。皺の奥の小さな目が少し青みがかってみえる。84歳だそうだ。
「今はみんな小さい犬ばっかりだね。昔は大きな犬を飼ったもんだ。」
と言った。
昔はどこそこの家に犬がいると聞くと、自分の家の犬を連れて出かけていって戦わせてくれと頼む、先方も、おお、いいよ、と言って、犬を戦わせて見物したそうだ。
それから昔はこの辺りは民家など一軒もなくて、材木の集積場になっていた。山から切り出した木材が川を下り、集まった。子どもたちは上流まで歩いて遊びにいって、いかだに乘せてもらって帰ってくる。浅瀬で「ほれ、押せ」と言われれば、よしきたとばかりに飛び降りていかだを押す。そういう仕事をする代わりに乘せてもらうのだ。
それから、昔は車なんて全く走ってなくて馬力だったとか、軽便鉄道が走っていたとか、少し雨が降ると一帯が水浸しになったとか、年寄りの肩をたたいて小遣い銭をせがんだとか、いたずらっ子でよく叱られたとか、こども時代の思い出をひとしきり話した。
この間、静浜の飛行場に行ったけどね、飛行機の傍の若い連中と話したが、俺らみたいにグラマンやB29を本当に相手にしたことある奴なんてもういないやね。
ひと抱えもある重い弾を高射砲に运ぶのに、こっちからこう抱えて振り向いたら、その間にすぐ隣にいた奴が機関銃に撃たれてもう倒れてるんだよ、まったく运だね。生きるか死ぬかっていうのは。俺は运がよかった。
レイテ島に向かう直前、病気になって船を下りた。後から知り合いに会って、お前なんで生きてるんだ、って驚かれたよ。その船で行った連中は皆死んだからね。
戦後、病院でね、隣のベッドの下士官が泣くんだ。故郷では葬式出して、墓まで建ってる。自分は死んだことになってるから恩給が貰えないと。
「え~?生きてます、って名乘りでてもだめなんですか?」
「証明する人がいないだろ。部隊が全滅したからさ。」
(この辺の事情は私にはよくわからない。)
新潟の方の人が、証明する人がいないってんで、こっちの静岡の連中が証明してやったらしい。そしたら過去3年分の恩給が貰えたってんで喜んでね、魚やら米やらたくさん送ってきたって話を聞いたよ。
兵隊に出てもね、冷たいやね。
耳がよく聞こえないからね、障害者手帳が貰えるかと思って役所に行ったんだよ。そしたら、あんたは傷痍軍人だね、って言われて、ここじゃだめだ、東京じゃないとだめだって。厚生省の管轄だから。東京へ行けって言うんだよ。
冷たいやね。
「長々と悪かったね。」
「いえいえ。楽しかった。」
日が長いので空はまだ充分明るかった。梅雨の真っ最中で午後になって雨が上がったところだったが、蒸し暑くなく、話の間中土手の上はずっと気持ちのよい風が吹いていた。
馬車が走っていた時代、少年がいかだで川をくだった日、日本が戦争をしていた時代はそんなに遠い昔のことでなく、今の私と地続きにつながっているのだと思った。