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法と知恵

(2008-12-11 17:09:17) 下一个

 
 先日たまたま、『今夜は最高』という古いテレビ番組を見ていたら、岡林信康というフォーク歌手がしゃべっていた。一時期、4年間ほど、戸数15軒の山奥の村で暮らしていたそうだ。
 
ある時、村の寄り合いがあって、川に架かる橋が古くなってぼろぼろなのでなんとかしたいが、橋の架け替えを村から陳情するとその費用をいくらか負担しなければならない、台風などの災害によって自然に落ちたとなると、市が全額出して架けてくれる、それでどうしようと。
 
村のマンジロウさんの言うには、大水が出たとき橋げたをのこぎりで切ったらどうだろう?すると、チョウさんが、いやいや、前にそれを隣村がやったらばれてお縄になったぞ、雪かきの雪を橋の上に集めて重みで落としたらどうだ?すると、今度はツナちゃんが、まてまて、俺の家は川向こうだ、雪を積み上げたら通れないじゃないかと。
 
本気の議論なのか、半分冗談なのか。おもしろい話だと思った。
 
「上に政策あれば、下に対策あり」とは中国の言葉だが、どこの国でも庶民の知恵と強さというのはこういうところにあるのかもしれない。
 
しかし、そういう庶民の生活レベルから生み出される小さな共同体の知恵が日本では時とともに失われていっているような気がする。かつて村社会が担ってきた役割、個人の利益が地域の利益と一体となることが可能な範囲の小さな共同体、そういう地域のルールや利益は時折、上のほうの組織のそれと相反するかもしれない。法とは必ずしも我々を守るものではない。そういう時、如何に地域の要求を通し個々の生活上の便利を守るか、そこから庶民の知恵と工夫と力が生まれるのだと思う。
 
ところが、今の日本は、国全体がまるで一つの大きな村のようになって国民全体を丸抱えに面倒みようとしているように見える。

 
今私たちが生きている社会は昔と比べて価値観が多様化していると、私は当然のように思っていた。けれど、日本という国全体がまるで一つの大きな村のようだと感じるのはどうしてだろうと自問自答してみると、価値観の多様化とは逆に日本全体が均質化しているという感覚から来ているのだと気がついた。日本全国どこに住んでも、人々は同じ法のもとで同じ教育を受け、同じ電波を受け、同じものを着て、同じものを食べる。便利で豊かな近代的生活とはつまりは合理的、物質的な生活のことで、それを経済的に裏打ちするのは規格化と大量生産だ。
 
文明の力によって世界はいやおうなく均質化される。とすると、均質化された社会に育つ人々の価値観も自然と均質化し、異質なものに対する対応力や許容力は減少していくのではなかろうか。

 思考が本題から外れてしまった…。


 

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