芥川賞を受賞した楊逸の『時が滲む朝』を読んだ。前回、賞を逃した『ワンちゃん』の方がずっとよかった。『ワンちゃん』では内容のおもしろさや勢いにひきつけられて日本語のぎこちなさも気にならなかったが、『時が滲む朝』は退屈さからちょっとした日本語の不自然さが目立ってしまって読みづらかった。
選評を読むと、この作品に対してプラスの評価をしている選考委員は9人中5人で、過半数と言えば過半数であるが、そのほとんどが作品そのものの完成度を評価しているわけではない。
「何より書きたいことを持っている。書きたいことがあれば、それを実現するために文章もさらに磨かれるだろう。…」(高樹のぶ子)
「巧拙を問うならば、これは最も完成度の高い作品ではなかったかもしれない。欠点はいくつかある。…しかし、ここには書きたいという意欲がある。…」(池澤夏樹)
「見知らぬ人たちなのに、この小説に出てくる人たちを、どんどん好きになってしまった。…」(川上弘美)
「…荒削りではあっても、そこには書きたいこと、書かれねばならぬものが充満しているのを感じる…」(黑井千次)
「平成の日本文学では書き表すことが困難なさまざまな風景が、楊さんの中には蓄えられているに違いない。」(小川洋子)
これらの委員たちは「書きたいという意欲」が作品から強く伝わってくる、と言う。けれど、私にはそれは伝わってこなかった。全体として印象が散漫で型通りな退屈さを感じた。
以下、他の選考委員の選評を挙げる。
「中国における自由化合理化希求の学生运動に参加し、天安門で挫折を強いられる学生たちの群像を描いているが、彼らの人生を左右する政治の不条理さ無慈悲さという根源的な主題についての書き込みが乏しく、単なる通俗小説の域を出ていない。文章はこなれて来てはいても、書き手がただ中国人だということだけでは文学的評価には繋がるまい。」(石原慎太郎)
「『時が滲む朝』の受賞にわたしは賛成しなかった。前作『ワンちゃん』のほうが、小説として優れていたと思った。小説は広義の「情報」である。『ワンちゃん』には日本の地方社会の惨状が外部の視点から見事に描かれていたが、『時が滲む朝』には、わたしにとって価値のある情報を見出せなかった。主要登場人物の学生時代などに代表される「純粋さ」を評価するという意見もあった。だがわたしは、純粋さではなく、単なる無知に映った。」(村上龍)
「受賞作となった楊逸氏の『時が滲む朝』が前作の『ワンちゃん』よりも優れているとは思えない。小説の造りという点においても、あまりにも陳腐で大時代的な表現においても、前作とさして差はないと思った。…
天安門事件当時に大学生だった主人公たちが、数年を経て日本で生活するようになってからが、この小説で深く掘り込まれなければならないだろうに、後半になればなるほど陰影は薄くなり、類型的な風俗小説と化していく。…表現言語への感覚というものが個人的なものなのか民族的なものなのかについて考えさせられたが、楊逸氏が現代の日本人と比して、書くべき多くの素材を内包していることは確かである。」(宮本輝)
「前作同様、この作者は応援したくなる人間を描くのが上手い人だ。しかし、女の子の瞳に<泉にたゆたう大粒の葡萄>などという大時代的な比喩を使われては困る。この、ページをめくらずにはいられないリーダブルな価値は、どちらかと言えば、直木賞向きかと思う。」(山田詠美)
石原慎太郎はこの作品の主題を、「天安門で挫折を強いられる学生たちの」「人生を左右する政治の不条理さと無慈悲さ」と捉え、そういう「根源的な主題についての書き込みが乏しい」と批判している。けれど、作者は果たしてそれを描きたかったのだろうか?その部分の書き込みが足りないのは、それが作者にとって掘り下げるべき主題ではなかったから、と考えられないだろうか。
ストーリーとしては確かに政治に人生を翻弄されている人物たちが主人公となっているが、初めから最後まで「政治の不条理と無慈悲さ」いう次元には深く入ることなく、ただ事実とともに時だけがさらさらと流れていく。登場人物たちはまるである結末にたどりつくための操り人形であるかのようだ。
「ふるさとはね、自分の生まれる、そして死ぬところです。お父さんやお母さんや兄弟たちのいる、暖かい家ですよ。」
物語の最後で語られるこの浩遠の言葉は、浩遠がその人生において紆余曲折の結果手に入れた想いとして私の心に響くものではなく、この物語を操る作者の手によって予め用意された答えであるという気がしてならなかった。