崖の上のポニョを見た。
期待どおり、とてもよかった。まず絵がよい。崖の上の家は、家も家の中の家具もみな角が丸く、定規で描いたような直線はひとつもない。それは人間が建てた人工物ではなく、まるで崖の上ににょきっと生えた大きなきのこか木の洞のように見える。 “まんまるおなかの女の子” であるポニョ自身がその外見だけで見るものにほっぺをつついたり抱きしめたくなったりするような感情を喚起させるのと同様に、自然と一体となったやわらかな曲線の家には人をやさしく包み込む安心感がある。
圧巻だったのは、ポニョが巨大な魚たちの波の上を走り、宗助の乘る車を追いかける場面である。ポニョの短い足が波の上をぽんぽん駆けて行くのに釣られて、思わず自分もワーッと走り出したくなるように足がうずうずした。
古代の海の底から湧き上がるような自然の力、野生的なパワーと、それをコントロールしようとする人間の力が作品の中で交差しあう。人間を捨てて海に住む者となったポニョの父親は、ポニョの持つ魔法の力を押さえ込もうとしたり、海洋牧場を管理したり、コントロールすること、物事の秩序を保つことを業としている。それから宗助の父も広大な海に浮かぶ小さな船の針路を見極め舵を取る、という生業に従事している。一方、ポニョの母と宗助の母は何事にも動じない大きな力を内に秘めながら、すべてを包み込むような優しさを併せ持っている。
ポニョと宗助は、その両親たちのミニチュア版であり、そういう父と母になるべく将来を背負った未熟な子供たちだ。
ポニョは宗助への恋慕と言う強い感情に突き動かされて、欲しいままに力を振るう。ポニョの魔法の力があって初めて宗助も海に漕ぎ出すことができるのだが、その過程で、宗助の母のところへ行くという始めの目的は、宗助がポニョを守るという形に変わっていく。宗助は、力を使い切って疲れたように眠るポニョを引っ張って运び、ポニョを父の管理下から解放し、自分と共に歩むものとして関係を築こうとする。それが宗助の「試練」であった。
人魚姫は王子様の愛を得ることができずに海の泡となって消えた。西洋では魚と人間の間には決して乘り越えることのできない壁がある。ところが、崖の上のポニョでは、それを「試練」という形で乘越えてしまう。それが意味するのは、単に人間と自然との共存共栄という外的な状況だけのことではない。人間自身の内側に存在する自然の力、野生のパワーのようなものを認識し、その制御困難なエネルギーに方向性を与え、そこから人間としての力強さを更に確立していこうという意味が込められているように思った。
映画館から帰ってきた後、母に
「どうだった?」
と聞かれ、
「ポニョのお父さんは宗助に『ポニョが元は魚でもいいのか』って聞いたけど、宗助はもともと金魚のポニョが好きだったんだから、それで『うん、いい』って答えたからといって、あんまりダイナミックで衝撃的な展開じゃないんだよね。人魚姫だったら大人の恋愛だから大きな障碍となるけど、子供だから人間も魚ももともといっしょくたに好きなんだから。」
などと話していたら、それをそばで聞いていた10歳の甥が、
「子供の映画なんだから、そんな難しいこと考えなくてもいいんだよ。」
とのたもうた。
はい、はい、おっしゃるとおりですとも。