さて、『ワンちゃん』だが、選評に日本語が稚拙だとか、こなれていない、という評があったが、私はむしろその硬くきちんとした文章が物語として整った体裁と相俟って、とても読みやすいと思った。
『乳と卵』とは対照的である。『乳と卵』では、語る主体や、立ち向かうべき現実そのものがあやふやで曖昧な感じがするのに対して、『ワンちゃん』では、あくまでも動かしようのない現実があって、それと真正面から対峙する「私」がいる。現実というものが疑いもなく外界にあって、それに対して「私」がいて、「私」がより幸福に生きることを目的として現実に立ち向かっていく構図がはっきりとした輪郭でかたどられている。
『ワンちゃん』では、ワンちゃんの「王愛勤」という元々の名前と彼女が人一倍の働き者であることを結び付けて説明していたり、単行本同時収録の『老処女』でも主人公の名前がその运命や性格と結び付けられていて、そこから、言葉と、言葉によって名づけられたものとが一致するという世界観が見て取れる。
ならば、姑だけが呼ぶ<ワンちゃん>という名称をタイトルに用いた意味は何だろう、とふと思った。中国での「王愛勤」は働きづめに働いても報われることがなかった。日本での「木村紅」は心の通うことがない形だけの夫の姓と、幸せな花嫁の象徴である紅(赤色)を組み合わせた名前である。そして「ワンちゃん」という名前は唯一、彼女が心を通い合わせた姑が呼ぶ愛称であり、しかも漢字ですらない。カタカナとひらがなの組み合わせである。表意文字である漢字という文字そのものに貼り付いている意味を剥ぎ取った「ワンちゃん」という名前は、彼女にとって素の自分に一番近い名前だったのではないだろうか。だから姑の死は、彼女にとって一番自然で健やかな名前を失うことを意味していたのだろう。
などと考えると、なかなかおもしろく読めるのだが、それにしては姑との心の交流の描写が詳しく書き込まれていないので、二人の間に存在したであろう情や絆にいまひとつ説得力がないし、土村との関係もどこか付け足しのような気がしてならない。
主人公が「王愛勤」として苦労した様子や、「木村紅」という国際結婚仲介人として活躍する場面は筆が活き活きとしていて面白いのだが、土村との微妙な恋愛感情や姑への親近感や情を描写する場面となると、型どおりになぞっているだけのようで、強く引き込まれるものがない。
もしかしたら、結局、「王愛勤」と名乘ろうが「木村紅」と名乘ろうが、ワンちゃんと呼ばれようが、彼女は変わらない、変われないのかもしれない。そこに彼女の育ってきた文化、社会、歴史の重さを私は強く感じた。