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芥川賞受賞作『乳と卵』

(2008-03-10 18:48:36) 下一个

  川上未映子の『乳と卵』を読んだ。
  ある夏、大阪に住む姉とその娘が、東京にいる<わたし>の家に泊まりに来てから帰るまでの三日間のお話である。
  姉の巻子は39歳、10年前に離婚して女手ひとつで、娘の緑子を育ててきた。緑子は現在小学6年生である。巻子が上京した目的は豊胸手術のためで、いかに胸を膨らますかということが現在の一大事であって、そのことしか話さない。娘の緑子は母に対してもう半年も口をきかない。すべて筆談で通している。
 緑子は、もうすぐ来るであろう生理に対する嫌悪感=女としての身体に対する嫌悪感をひたすらノートに書き綴る。

  <こないだも学校で、移動んときに、誰かが、女に生まれてきたからにはいつか子どもは生みたい、みたいなことをゆってて、単にあそこから出血する、ってことが女になるってことになってて、それからなんか女として、みたいな話しになって、いのちを生む、とかそういうでっかい気持ちになれるのはなんでやろうか。そしてそれがほんまにいいことって自分で思うことなんかな。あたしはちがうような気がしてそれが厭な原因のような気がしてる。…(略)…あたしは勝手にお腹がへったり、勝手に生理になったりするようなこんな体があって、その中に閉じ込められてるって感じる。んで生まれてきたら最後、生きてご飯を食べ続けて、お金をかせいで生きていかなあかんことだけでもしんどいことです。お母さんを見てたら、毎日を働きまくっても毎日しんどく、なんで、と思ってまう、これいっこだけでもういっぱいやのに、その中からまた別の体を出すとか、そんなこと、想像も出来んし、そういうことがみんなほんまに素晴らしくてすてきなことって自分で考えてちゃんとそう思うのですかね。ひとりでこれについて考えたときにすごくブルーになるから、わたしにとってはいいことじゃないのはたしかで、それに、生理がくるってことは受精ができるってことでそれは妊娠ということで、それはこんなふうに、食べたり考えたりする人間がふえるってことで、そのことを思うとなんで、と絶望的な、おおげさな気分になってしまう、ぜったいに子どもなんか生まないとあたしは思う。>

  さて、引用が長くなった。句切れのないだらだらと続く文章なので、引用もなかなか途中で切ることができない。この自問自答の思索と、その思索を<ノートに記録する>という行為こそ、成長過程の緑子に必要不可欠な行為であったのだろう。ここで緑子が問うているのは、<私が生まれてきた意味><私が生きている意味>であり、また<私が命を生み出す性を持って生まれてきた意味>であって、緑子は大人や世間が教えてくれないその答えを一人で必死にみつけようとしているし、答えがみつからないのに体だけがいやおうなしに大人になっていくことへの不安を抱えている。娘が耐え切れない不安で一杯になっているのも知らず、母親は豊胸手術の資料集めに奔走する。
  けれど、緑子は決してそういう母親を否定しているわけではない。逆に、彼女には母の辛さ、苦しさが見えてしまって共感するからこそ、いろんな思いを母と共有できないことに対するもどかしさが彼女をいらだたせる。
 
 物語の最後の方でやっと、巻子がなぜそれほど豊胸手術にこだわるのか、その原因らしき事情が暗に語られる。
 病院に行くと言って出かけたまま帰らない巻子を心配して待ちわびる緑子とわたしの前に、巻子は酔っ払って現れる。その母に対して緑子はようやく<搾り出すような声>を発する。

  <お母さん、ほんまのことを、ほんまのことをゆうてや、>

  緑子は冷蔵庫から卵を出して、それを自分の頭に叩きつけ頭からぼたぼたと割れた卵の中身をたらし、泣きながら言う。

  <む、胸をおっきくして、お母さんは、何がいいの、痛い思いして、そんな思いして、いいことないやんか、ほんまは、なにがしたいの、>
  <それは、あたしを生んで胸がなくなってもうたなら、しゃあないでしょう、それをなんで、お母さんは痛い思いしてまでそれを、>
  <わたしはこわい、色んなことがわからへん、目がいたい、目がくるしい、目がずっとくるしいくるしい、目がいたいねんお母さん、厭、厭、おおきくなるんは厭なことや、でも、おおきならな、あかんのや、くるしい、くるしい、こんなんは、生まれてこなんだら、よかったとちやうんか、みんな生まれてこやんかったら何もないねんから、何もないねんから、>

  女になる、ということが、機能的に子供を生むことができる、ということだけではないことに緑子は気付いてる。母はなぜ胸を膨らませたいのか?緑子はそれを知りたい。表面に現れている母の行動、行為を突き動かしている背後にある何か、母の内側にある見えてこない<ほんまのことを>知りたいのだ。
  痛い思いまでして女であろうとする母の欲望のありか、母を苦しめるその得体の知れないものはいったい何なのか、そのコントロールの効かない欲望に対して自分もこれから向かい合わなければならないことへの恐れ、緑子はその怯えを母に向かって直接吐き出すことによってやっと、母と子という関係から一歩踏み出して、新たな関係性を築く端緒を得たのかもしれない。
  娘が母に正面からぶつかって思いを吐き出し、母も娘の思いを受け止めやさしく背をさするというシーンが小説の中ではクライマックスとなって、二人の関係性が回復された安堵感とともに読んでいてカタルシスを感じる。始め読みにくかった文体もだんだんと引き込まれて途中から気にならなくなったし、読後感はとてもよかった。
  しかし、緑子の人間としての根源的な問いは、なんだか宙に浮いたままのようで、母との女としての連帯というそれで結論が出てしまったのだろうか、と物足りない思いも残る。 

ここで、ふと気付いたのだが、緑子の<ほんまのこと>が知りたいという根源的なものへの追求、真理への欲求が宙ぶらりんになってしまうこと、行き場を失っていることが、つまりは現代の問題なのではないか。ノートに綴られる緑子の思いは、確かに存在する、記録されるのに、それはただ緑子の内部に留まるだけで、その外側に向かって解放されない。それは、外に通じる言葉を持たないからだ。 

<ああ、巻子も緑子もいま現在、言葉が足りん、ほいでこれをここで見ているわたしにも言葉が足りん>。 

泣きながら、玉子まみれになりながら、<ほんまのこと>が知りたいと訴える緑子に対して母は言う。 

<緑子、ほんまのことってね、みんなほんまのことってあると思うでしょ、でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで、何もないこともあるねんで。> 

果たして、<ほんまのこと>なんて本当はないのだろうか。

言葉ではすれ違ったままの緑子と巻子なのに、玉子まみれになりながら、なんとなく気持ちが通じ合って、翌日二人は大阪へ帰る。なんとなく通じ合う、ということが足りない言葉を埋めるひとつの術ではあるのかもしれないけれど、私としてはやはり少し物足りない感じがしないでもない。 

この後、続けて、受賞は逃したが芥川賞の候補になった楊逸の『ワンちゃん』を読んだ。同じく女性で、しかし異なる文化を背景にした作家の作品であり、比べてみると興味深い。『ワンちゃん』の感想はまた後日あらためて。

[2008-03-12補筆しました。]

 

 

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