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「日本人って、『自然に』っていうのが好きだよね。」
と、ある中国人が私に言った。
「大自然」の「自然」ではなく、「自然のままに」と言う時の「自然」で、「そのまま」とか「作為的でない」「成り行きのままに」といったようなことにも通じる。
私は、なるほど、と思った。日本では一般的に、組織の运営や人とのコミュニケーションにおいて、急速に改革しようとしたり個人の意見を強引に押し通したりすることは、それがどんなに正しく合理的なものであっても嫌われる。多くの関係者の合意を取り付けながら、少しずつゆっくりと、方向転換を図らなければならない。まずは溝を掘って用意周到に水の流れる道を作っておき、古い流れを少しずつ崩す。あたかも自然に低きに流れるが如く水は人が掘った新しい溝に導かれる。導かれた水は流れるべき方向に流れたに過ぎず、無理やり流れを変えさせられたという意識を持つことはない。
その話より以前に、日本と中国の社会制度の違いの一つとして、中国にある革命の思想が日本にはない、という話を聞いたことがある。
中国には『易姓革命』の思想がある。有徳者は天命を受けて国を統べるが、もしその者が徳を失えば、天命によって皇帝をも討つことができる革命が許されている。日本は奈良時代に中国から律令制を取り入れ、この際、天皇は中国流の皇帝として位置づけられたが、『易姓革命』が日本に取り入れられる事はなかった。日本では天皇は子々孫々特定の家系によって生得の地位として受け継がれてきた。
革命というのは、ほんの短い間に、天地がひっくり返る。昨日の貴族が今日の罪人に、今日の農民が明日の皇帝に、といった具合に。そういったいつ劇的に変化するかわからない社会の中で、中国人は常に社会の変化に敏感に反応し、身構え、賢く対処しながらしたたかに生き抜いてきた。
日本人はそういう鍛錬を必要としない社会の中で、自然に低きに導かれる水のような生き方に親しんできた。それが例え自分の生活にとってひどく不利になる場合でも、社会に抗ったり戦ったりするよりも、器に合わせて自分の形を変える方を選択することを好む。
日本や中国に限らず、社会と自分との関係やコミュニケーションのとり方は、何百年もの間に培われて受け継がれてきた身体的な慣れとでもいうものであって、国や民族によって各々独自のものがある。