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norikokumashiroさん
鷗外の「寒山拾得」、何回読んでも、斎藤茂吉の解説を読んでも、いったい何を言いたい小説なのかが分かりません。鷗外に詳しい人、教えてください。小説の最後、僧がぞろぞろたかった、立ちすくんだというのも何の暗
ベストアンサーに選ばれた回答
鴎外の?寒山拾得?は、『自分が追求している道の先達でもないものを、偉そうだとの評判で盲目の尊敬をするのはばかげているから、そのようなことには関心を持たなくていいよ』と言うことを、子ども向けに話した内容を、簡単にさらっと書き直して、出版社に持ち込んだものでしょう。 当時?寒山詩?が修養のために読むべき本として広告されていたことに対する鴎外の合理的批判の意味もあったのでしょう。 なお鴎外自身は寒山拾得の軸を掛けていたようですから、寒山拾得の気を否定していたのではなくて、?あの人は高名だ?偉いという情報や偉そうな人らしいという気持ちで、自分ではわからないし、その道を目指すつもりもないにのに、尊ぼうとする姿勢」を否定していたのだと思います。
末尾で、(飯菜汁を盛っていた)大勢の僧らがぞろぞろ来てたかったのは、その場所が竈でだった殻でしょう。僧らは閭を知りません。飯や汁のお代わをつぐように要求しに来たのです。道翹は閭を朝儀大夫、使持節、台州の主簿と知っていますから、この事態に真っ青になって立ちすくむのです。
鴎外の寒山拾得縁起の末尾でも、(社会的尊卑の実態など)も知らない子どもには、偉い、仏様のようだというような評判で人をラベリングしても意味ないよというのを、修辞的表現で?実はお父さんも文殊なんだ?(文殊と賞されている人、多くの人が拝みに行くというだけで、価値を決めるのは止めなさい)と書いたのでしょう。
~~~~~~~~~~~~ 寒山拾得縁起 (部分)
子供に物を問はれて困ることは度々である。中にも宗教上の事には、答に窮することが多い。(略)寒山詩が所々で活字本にして出されるので、私の内の子供が其廣告を讀んで買つて貰ひたいと云つた。「それは漢字ばかりで書いた本で、お前にはまだ讀めない」と云ふと、重ねて「どんな事が書いてあります」と問ふ。多分廣告に、修養のために讀むべき書だと云ふやうな事が書いてあつたので、子供が熱心に内容を知りたく思つたのであらう。 私は取り敢へずこんな事を言つた。床の間に先頃掛けてあつた畫をおぼえてゐるだらう。(略)詩はなか/\むづかしいと云つた。子供は少し見當が附いたらしい樣子で、「詩はむづかしくてわからないかも知れませんが、その寒山と云ふ人だの、それと一しよにゐる拾得と云ふ人だのは、どんな人でございます」と云つた。私は已むことを得ないで、寒山拾得の話をした。 私は丁度其時、何か一つ話を書いて貰ひたいと頼まれてゐたので、子供にした話を、殆其儘書いた。いつもと違て、一册の參考書をも見ずに書いたのである。(略)子供は此話には滿足しなかつた。(略)そしてとう/\かう云つた。「實はパパアも文殊なのだが、まだ誰も拜みに來ないのだよ。」
~~~~~~~~~~~~ 寒山拾得 (部分)
この無頓著な人と、道を求める人との中間に、道と云ふものゝ存を客觀的に認めてゐて、それに對して全く無頓著だと云ふわけでもなく、さればと云つて自ら進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎遠な人だと諦念め、別に道に親密な人がゐるやうに思つて、それを尊敬する人がある。尊敬はどの種類の人にもあるが、單に同じ對象を尊敬する場合を顧慮して云つて見ると、道を求める人なら遲れてゐるものが進んでゐるものを尊敬することになり、こゝに言ふ中間人物なら、自分のわからぬもの、會得することの出來ぬものを尊することになる。そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、偶それをさし向ける對象が正鵠を得てゐても、なんにもならぬのである。
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「高瀬舟」から「寒山拾得」まではわずか二日だった。このことについて斎藤茂吉が次のように書いている(「鴎外の歴史小説」)。
〈この短篇で心を牽いたのは、この短編について、作者自身、『私は丁度其時、何か一つ話を書いて貰ひたいと頼まれてゐたので、子供にした話を、殆其儘書いた。いつもと違て、一冊の参考書をも見ずに書いたのである』(寒山拾得縁起)と注してゐるが、この黄金をのべたやうな、荘厳の気をおこさせるやうな好短篇が、作者のいふやうに、一気に書けるものかどうかといふ疑もないことがなかつた。然るに昭和十一年四月になつて、計らずも作者の日記を見せてもらふ機縁があつた。そのとき私は先づ第一にそのあたりの日録を検したところが、大正四年十二月四日の条に、『椙原品を福地に付与す』とあり、十二月五日の条に『高瀬舟を草し畢る』とあり、十二月六日の条に、『高瀬舟を瀧田哲太郎に付与す』とあり、十二月七日の条に、『寒山拾得を草し畢る』とある。さうして見れば、役所から帰られてから、一晩或は二晩で草し畢られたことが確実である。嗚呼、燕雀は私で、鴎外は鴻鵠であつた。〉
質問した人からのお礼