これは有名な江戸時代初期の紙本金地著色屏風で重要文化財となっている。何回も見たものであるが、現在サントリー美術館で開かれている展覧会「
南蛮美術の光と影―泰西王侯騎馬図の謎」では両者を並べて目玉作品としている。
本図の成立にあたっては、日本布教を意図するイエズス会が作ったセミナリオ(神学校)が関与したとされている。セミナリオでは、ラテン語、音楽、画の模写などが教えられており、画の教師はイタリア人修道士
ジョバンニ・ニコラオであったことが分かっている。遠近法や陰影法、さらには凹凸などを駆使したこの屏風の表現は西洋風だが、金箔や顔料などは日本画の手法で、高い完成度と品格をもつ和洋の折衷様式となっている。
今回、光学的に精査したところ、日本ではあまり使用されない鉛白が使われていること、下張に「金」という漢字が書かれていることなど和洋の折衷性が再確認されたとのことである。
多難な会津若松の歴史は複雑である。1589年に伊達政宗が葦名氏を滅ぼしてこの地を本拠としたが、秀吉の奥州仕置によって1590年、この地は蒲生氏郷にあたえられた。この屏風はキリシタン大名であった氏郷が持ち込んだのであるという説(池長孟氏)もあるが、この騎馬像の原図は、アムステルダム刊行の1606~1607年のウィレム・J・ブラウ世界地図(アムステルダム海洋博物館所蔵)を、1609年に改訂した大型の世界地図の上部を飾る騎馬図であると想定されており、一方氏郷は1595年に他界しているので、現在はこの説は否定的である。
氏郷の死後、越後から上杉景勝が入封したが、関ヶ原の戦いで西軍にくみしたため、米沢に減封され、東軍にくみした蒲生秀行が入封した。2代目の急死に伴い、伊予松山の加藤氏が蒲生氏と入れ代わりに入封した。しかし2代目の時に、家中騒動(会津騒動)が起こり、改易となった。
加藤氏改易の1643年に、山形藩から2代将軍秀忠の庶子の保科正之が入封した。番組では、問題の屏風はこの際に将軍家から与えられたものではないかとの説(坂本満氏)が取り上げられていた。禁教となった徳川時代、イエズス会の関係者が自分たちの身を護るため、キリスト教と関係の無い図柄で、勇壮なアラビア種の馬を強調したこの屏風を贈って武将の心をくすぐろうとしたのはないかというのである。もっともまったく証拠の無い想像の話ではある。
保科氏は3代のとき松平に改姓し、徳川将軍家親族の名門として名実ともに認められるようになった。最後の藩主となった9代容保は、1862年に京都守護職となり、新撰組を配下に置いて京都の治安維持を担った。このため戊辰戦争にあたっては、会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。会津藩は奥羽越列藩同盟の支援を受け新政府軍に抵抗したが、会津若松城下での戦いに敗北して降伏した。
降伏後、松平容保は上京させられたが、その際の持参品のリストにこの「泰西王侯騎馬図屏風」と思われる屏風が書きこまれている。
このうちの一隻は松平家に保管されていたらしく、1945年の東京大空襲を潜り抜け、現在はサントリー美術館に所蔵されている↑。
そこに描かれているのは、右から、ペルシャ王、アビシニア王(エチオピア王)、フランス王アンリ4世、イギリス王あるいはギーズ大公フランソワ・ド・ローランあるいはカール5世とされている。異教徒のペルシャ王が槍を持つのに対し、キリスト教国の3人の王は王笏を持ち、ペルシャ王の方を向いている。
他の一隻は長州の前原一栅嗡?iとなり、明治3-9年の間、彼の手元にあったが、昭和7年に神戸のコレクター
池長孟氏がこれを購入し、その後神戸市に寄贈されて、現在神戸市博物館に保管されている↑↑。
屏風は右からタタール汗、モスクワ大公、トルコ王、および神聖ローマ皇帝ルドルフ2世とされ、キリスト教徒と異教徒が王どうし闘う構図になっている。画としてはこちらの方がドラマチックである。
画の出来栄えも素晴らしいが、その変転の歴史を平易に解説してくれる番組も良かった。
美術散歩 管理人 とら