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横笛物語 作詞:木下龍太郎 作曲: 弦哲也
原唱: 市川由紀乃 翻唱:霞 制作:
なんで逢っては呉れぬのですか
一目だけでもいいものを
男ごころの気まぐれですか
袂(たもと)に入れたに恋文は
京都北嵯峨 滝口寺
開けて下さい 柴の戸をあなた
恋の闇路にあれから迷い
やつれて痩せた この横笛の
募る思いが届いたら
死ねと私に言うのでしょうか
二度とこの世で逢えぬなら
愛を終わりにする気でしょうか
女を袖にしたままで
京都北嵯峨 笹時雨
卑怯者です あまりにもあなた
髪を落として、仏の門に
入るのならば、この横笛に
どうぞ一言 その理由(わけ)を
京都北嵯峨 滝口寺
女捨てます、今日限りあなた
生きて浮世で添えぬのならば
迷わず後をこの横笛も
明日は着ましょう
墨衣
京都 ・ 洛西 夏の嵯峨野路 ~滝口寺~
祇王寺の門前の坂道をさらに登ると、また新たな門に出会います。それが滝口寺、高山樗牛の小説「滝口入道」にちなんだ寺名を持つ浄土宗のお寺です。
この季節でも祇王寺を訪れる人は結構居たのですが、その隣にある滝口寺まで足を撙秩摔悉搐?铯氦?螛敜扦筏俊?g際、私が入って境内を一回りしている間に出会った人は皆無で、わずかに帰りがけに門前ですれ違った人が 1 人居ただけです。それだけ知名度に差があるという事なのでしょうか。
滝口寺は、元は往生院三宝寺という名の寺でした。明治維新の際に一度廃寺になっており、隣の祇王寺の再建に続いてこの寺もまた復興され、その時に新たに滝口寺と命名されています。
「滝口入道」は平家物語にある滝口入道(斉藤時頼)と横笛の悲恋を題材にした小説で、その舞台となったのがこの寺だったと言われています。
「滝口」とは清涼殿の北にある警備のための詰め所の事で、斉藤時頼はそこに勤める滝口の武士でした。彼の主人は平重盛だったのですが、ある日西八条殿で開かれた花見の宴に出た時、建礼門院の雑仕女であった横笛を見初め、恋文を送る様になりました。二人は逢瀬を重ねる様になったのですが、ところがこれを知った時頼の父が、名門に連なる身でありながら身分の低い女に思いを馳せるとは何事かと時頼を叱りつけます。時頼は、この恋にうつつを抜かす事は、自分を信頼してくれている重盛に対する裏切りでもあったと考え、嵯峨野の往生院に入って出家をしてしまいました。
時頼が出家した事を知った横笛は、彼を追って嵯峨野を訪れたのですが、どこに居るか判らないままにあちこちを探しあぐねます。そして日の暮れかかる頃、ようやく読経を上げる時頼の声に気付いてその庵を訪ねました。時頼は驚おどろきあきれ、彼女を哀れに思いつつも、既に入道した身であり、いま会う事は修行の妨げになると、心を鬼にしてその様な者は居ないと同宿の者に言わしめました。横笛は、自分の本当の気持ちを知って貰いたい一心で、指を切って流れる血で近くの石に和歌を認めます。
山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道に我を導け
横笛はこの歌を残して嵯峨野を去り、大和の法華寺で出家したとも、世を儚んで大堰川に身を投げたとも伝わります。
一方の時頼は、横笛に居場所を知られた以上ここには居られないと思って高野山に移り住み、その後は修行に励んで高僧と呼ばれるまでに至りました。そして、かつての主人である重盛の子・維盛の入水に立ち会う事になるのです。
現在の滝口寺では、本堂において滝口入道と横笛の像が仲良く並び、境内には平家一門の供養塔、それに重盛を祀った「小松堂」などを見る事が出来ます。
そして滝口寺には、もう一つの悲恋がまつわります。
南北朝の武将である新田義貞は、鎌倉幕府を倒した恩賞にと、後醍醐天皇から一条家の娘である勾当内侍を授けられました。勾当内侍を妻に迎えた義貞は、彼女を可愛がるあまりにある失策を犯します。足利尊氏が京を落ちる時、義貞は追い打ちを掛ける様に命じられたのですが、勾当内侍との別れを惜しんでいる内に戦機を失い、尊氏を九州に逃してしまったのです。
その後、義貞は越前にて足利軍と争い、敗れて獄門に架けられてしまうのですが、それを知った勾当内侍が彼の首を取り返し、嵯峨野の地に埋めて生涯その霊を弔ったと伝わります。二つ上の写真が義貞の首塚で、上の写真が勾当内侍の供養塔と言われます。
二人の関係が史実かどうかは実は疑わしい所なのですが、ある意味歴史を動かした恋として語り継つがれている事には違いなく、この寺は二つの悲恋の舞台となった希有な場所という事になるのですね。
滝口寺は境内に楓樹が多く、紅葉が見事な場所でもあります。隣同士にありながら、わずかに標高が高いせいでしょうか、祇王寺よりも一足早く紅葉が始まると言われ、嵯峨野の隠れた名所の一つとなっています。
祇王寺までやって来たなら、もう一つ訪ねておきたいのが目と鼻の先にある滝口寺。
どれぐらい近いかと言いますと、祇王寺を出て元の柴垣の石段道をあと何段か登るだけ。
パッと明るい光の下に出ると同時に、滝口寺の入口である茅葺の門が現れます。
滝口寺も祇王寺と同様「往生院」の子院の一つで、元は「三宝寺」と言いました。
しかし、こちらも明治に入り廃寺となっていたのを、高山樗牛の小説『滝口入道』のヒットにより、滝口&横笛ゆかりの地として、その名も「滝口寺」として再興されることとなります。
受付を過ぎて真っ先に現れるのは滝口入道とは無関係の新田義貞の首塚。
鎌倉幕府を倒した勇将の一人 ・ 新田義貞は、その恩賞として後醍醐天皇から一条家の娘 ・ 勾当内侍を賜りますが、彼女に執心する余り失態を冒し、最後は足利尊氏との戦いに敗れ、獄門に掛けられることとなります。そして、気丈にもその首を取り返した勾当内侍は「往生院あたりの柴の庵に行いすまし、義貞の菩提を弔った」と言います。
その勾当内侍の供養塔がこちら。
無残な姿となった夫の首を引き取り、菩提を弔ったというのは平重衡の妻 ・ 大納言佐のエピソードとも重なり、そのあまりの傷ましさに胸を衝かれる思いです。
さて、新田義貞の首塚から右手に伸びる石段を少し登った所にあるのが滝口と横笛の歌問答旧跡の「三寶 ( 宝 ) 寺歌石」。ここから『平家物語』の世界が始まります。
滝口入道こと斎藤時頼は平重盛に仕える「滝口の武士(清涼殿の北にある詰め所「滝口」に勤める武士)」で、建礼門院の雑仕女 ・ 横笛と恋仲となりますが、身分の違いを理由に二人の仲を父から咎められた時頼は、恋と忠孝の板ばさみに悩み、ついにはそこから逃れるように嵯峨野の往生院にて出家を遂げます。
やがて、出家の事実を知った横笛は時頼を追って嵯峨野を訪れ、方々を探し回った挙句にようやく彼の読経の声を頼りにこの庵に訪ね当たりますが、時頼は修行の妨げになってはと同宿の僧を通じて「そのような者はここにいない」と返答して門前払いに。それでもどうしても思い切れない横笛は、自ら指を切りそのしたたる血で切なる思いを込めた一首の歌を石に書き記します(その石が上の写真の右手にようやく映り込んでいる丸い石)。
「山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道にわれをみちびけ」
とうとう時頼と会えぬまま嵯峨野を後にした横笛は、その後、奈良の法華寺に入り出家し、それを伝え聞いた時頼はようやく横笛に一首の歌を送ります。
「そるまでは 恨みしかとも梓弓 まことの道に入るぞ嬉しき」
この歌への横笛の返歌が、
「そるとても 何か恨みむ梓弓 引きとどむべき心ならねば」
共に様を変えてようやく叶った心の交流。
この二人が初めて詠み交わしたいう歌問答の歌碑が先ほどの歌石の前に立つ石碑です。
さて、この歌石から石段をさらに登って本堂へ。
茅葺屋根の素朴な作りはお寺というより田舎の民家のような佇まいで … 。
この本堂の正面奥にはご両人の木像が安置されています。
この世でついに結ばれることのなかった二人ですが、像だけは二人が共に居並ぶ姿で。
しかし、頑なだった時頼の心を表すかのように、どこかぎこちない風情も漂います。
そして、この像の視界の先に広がるのがこの端整な庭。
直射日光が差し放題ですので、祇王寺ほど涼を感じることはできませんが、適度に明るさのある爽やかな庭園です。
こちらの障子の向こうに見える小さな御堂は、時頼の主人平重盛を祀るという小松堂。
そして、こちらは平家一門の供養ための平家供養塔と呼ばれる十三重石塔。
横笛説話に留まらず、時頼が重盛の家人であったことに由来する史跡もここ滝口寺では多く見受けられます。
とはいえ、時頼がこの地に滞在したのは出家間もない頃のほんのわずかな一時期のこと。
横笛に住まいを知られるや、再び逃れるように高野山へ登り、厳しい仏道修行の末に高僧と呼ばれるまでになった滝口入道時頼は、やがて零落したかつての主人 ・ 重盛の嫡男維盛の出家~熊野詣で~那智入水に立ち会うこととなります 。