1911年4月27日、受日本援助的中国同盟会第10次武装蜂起開始、以失敗告終。(以下日文)
中国同盟会は1905年に孫文が率いる興中会、黄興が率いる華興会などが合体し、東京で結成された革命団体。
黄興は当初、広州の奪取をめざす武装蜂起を4月13日に予定していたが、当局が警戒を強めており、資金と武器の到着も遅れたため、計画は延期された。
23日、黄興は広州に潜入し指揮部を立ち上げた。動きを察知した当局は多くの関係者を逮捕したため、形勢は更に不利になったが、黄興は決行を決意した。
27日午後5時30分ごろ、黄興が率いる決死隊約120人は、広東と広西の司法と行政を所管する両広総督の官庁を襲撃。総督の張鳴岐は逃げたが、まもなく水師提督の李准に撃退された。黄興は負傷して香港に逃走したが、処刑者を含め少なくとも86人が犠牲になった。うち72人の遺体が広州郊外の黄花崗(こうかこう)に埋葬されたため、事件は「黄花崗起義(黄花崗蜂起)」と呼ばれる。