刘正教授的学术博客

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《lAHLS通讯》第22期:会长刘正教授:“彭”と楚文化関係について ——馬王堆帛書《周易》を中心にとして

(2017-06-09 20:07:55) 下一个

《lAHLS通讯》第22期:会长刘正教授:“彭”と楚文化関係について ——馬王堆帛書《周易》を中心にとして

 2017-06-08  

国际考古暨学历史语言学会会长刘正教授

 

一 、はじめに

 

《周易·大有卦·九四》爻の爻辭について、古今易学史上では、定論がない問題である。しかも、版本学の角度から言えば、漢代から、この爻の爻辭用字については、三つの版本があって、當時、伝わっていた。どの版本の用字が、《周易》作者の本來の意味を表す原始的な版本かということは、本當に難しくて確認できない。この三の版本は、次の樣うな用字がある、1、漢代の虞翻を代表とする虞氏易学の版本、“その尪にあらず、咎なし”に作っている。2、魏晉時代の王弼を代表とする王氏易学の版本、“その旁にあらず、咎なし”に作っている。3、漢代の熹平石經を代表とする正統的な易学の版本、“その彭にあらず、咎なし”に作っている。

 

二十世紀の七十年代初期になって、漢代の馬王堆帛書《周易》の出土に本なって、この爻の爻辭原始的な用字の判定と理解にとって、一つの參考すべき機會が與えられた、しかし、殘念なことに、漢代の馬王堆帛書《周易》は、一つの完全な版本ではなかった。通行本に比べて、間違った用字も至る所にある。たとえば、《師卦·上六》は、馬王堆帛書《周易》は、“大人君、命あり:國を啟き、家を承く、小人は、勿かれ”に作っている。ここの“勿”字の下、文字がはっきりしていない。しかし、ここの“大人君、命あり”というのは、通行本は、“大君、命あり”に作っている。しかも、“大君”という言葉は、《周易》と《尚書》など先秦時代の古籍において、常に使われたものである。ぃわゆる“大人君”というのは、馬王堆帛書《周易·師卦·上六》のみに使われている、從って、馬王堆帛書《周易·師卦·上六》においては、“人”字が誤って加えれたものであると分かる。“國を啟き、家を承く”というのは、通行本との“國を開き、家を承く”より、韻律と文勢が、はるかに劣っている。また、《漸卦·六四》の馬王堆帛書《周易》は、“鴻木に漸む、或いはその冠を直す。。咎なし”に作っている。通行本、“鴻木に漸む、或いはその桷を得す。咎”に作っている。二者を比較すれば、馬王堆帛書《周易·漸卦·六四》、“”字の一字が多い。その文字の意味は、今まで誰にも分からない。しかも、馬王堆帛書《周易·漸卦·六四》の“鴻木に漸む”の“木”の象は、後面の“或いはその冠を得す”の象とは、爻辭の象を取る方法は、一致しない、後面の“或いはその冠を得す”のなかには、“木”の象がない。しかし、通行本の“鴻木に漸む”の後面にある象は、“或いはその桷を得す”であり、“桷”のなかには、“木”の象があって、意味も明確になる。以上から、馬王堆帛書《周易》の版本は、一つの完全な版本ではない。

漢代馬王堆帛書《周易·大有卦·九四》爻の爻辭は、“その彭にあらず、咎なし”に作っている。これは以下のことを意味する、

 

1、“その尪にあらず、咎なし”と“その旁にあらず、咎なし”との兩種類の版本は、當時、すでに存在しなかったということである。この爻に対する歷代の論爭は、これによって解決されるはずである。なぜなら、現存する最も初期の出土史料が、秦·漢の易学の版本では、この字の用字は、“その彭にあらず”に作っているからである。“尪”と“旁”とは、“彭”の俗字として使われているはずである。

 

2、“その彭にあらず”と“その尪にあらず”と“その旁にあらず”との三種類の版本が、當時、存在した。ここの馬王堆帛書《周易·大有卦·九四》における“その彭にあらず”というのは、ただ當時三つの版本が並存していたことを証明するのである。すなわち、馬王堆帛書《周易》を孤立的な根拠として、馬王堆帛書《周易·大有卦》の用字は、“その彭にあらず”の版本が、當時、実際に存在していたことを証明するのである。その意味は、この爻の由來の論爭は、すでに形成されていたことを意味する。それで、この爻の形成およぴ原始的な內容を研究することは、原始《周易》經典の成立史にとって、特に、《大有卦》原始卦義の解釈に対して、極めて重大な意義がある。

 

本論文は、以下の構成で研究を進されることにする、一、はじめに。二、《大有卦·九四》爻の諸說についての考察。三、《大有卦·九四》爻についての諸版本の考察。四、虞氏易学の“尪”字說についての考察。五、“尪”字の成立史研究。六、“尪”と“彭”の関係の考察。七、結び。

 

二 、《大有卦·九四》爻諸說についての考察

 

本節では、《大有卦·九四》爻にある多くの解釈を考察し、以後の考察のため、基礎的な見解を述べる。私の考察によると、古今の易学史のなかに、この問題に対する解釈には、以下の十種類がある。

 

1、“盛大”、“盛滿”、“盛多”說。

それは、“盛大”、“盛滿”、“盛多”の意味をもって“その彭にあら

ず”に対する版本用字を解說するのである。たとえば、宋代の朱震《漢上易伝》は、

彭は、《子夏伝》は、“旁”に読作す。旁は、盛滿の貌なり。

とある。また、宋代の程頤《易伝》は、

彭は、盛多の貌なり。

とある。今人鄧球柏《帛書周易校釈》は、

彭は、盛大の貌なり。

 

とある。これらと同じものに、たとえば、宋代の楊萬里《誠齋易伝》は、“盛になるの至るなり”とある、元代の吳澄《易篡言》は、“声樂を作す盛のになるなり”とある。明代の來知德《周易集注》は、“言うこころは、声勢の盛になるなり”とあるなど、宋代より、“彭”字を“盛大”、“盛滿”、“盛多”の意味に解釈するのは、一つの主流であっり、その說の由來については、すなわち、程頤《易伝》が考証している。それは《詩經》における“彭彭”一詞の意味をもって《周易》における“彭”字の意味に解釈するのであった。その論証過程は、次の通りである。

彭は、盛多の貌なり。《詩·載驅》に云く:“汶水湯湯、行人彭彭”と、行人盛多の狀なり。《雅·大明》に云く:“駟騵彭彭”と、言うこころは、武王は、戎馬の盛になるなり。

 

とある。しかし、“彭彭”という言葉は、“彭”の意味ではない。たとえば、《詩經》においては、“桃の夭夭”の“夭夭”という言葉の意味が、“夭”字とは、意味がまったく違っているである。すなわち、古代漢語における重疊詞の意味というのは、單漢字の意味の單純な重複ではない。このことから、程頤《易伝》におけるこの字に対する解釈は、明らかに不十分である。以上の事が正しければ、この說の成立根拠は、すでになくなってしまったことになる。

 

2、“驕滿”說

この說の起源は、“その彭にあらず”の“彭”字を“亨”字に解読するのである。この說は、晉代の干寶が始めて作った。唐代の陸德明《經典釈文》は、

干は、“彭は、亨なり。驕滿の貌なり”と云う。

とある。この說の由來については、これまてのところに明らかでない。歷代、この說に贊成した者は、すくない。よって、“彭”字を“亨”字に解釈したうえで、さらに“驕滿の貌”に解釈したのは、根拠が不十分である。

 

3、“壯”字說

この說の起源は、魏晉時代の王肅が始めてとなえた。唐代の陸德明《經典釈文》は、

王肅は、“壯なり”と云う。

この說の由來については、これまてのところに不明である。歷代、この說に贊成した者は、すくない。この說については、成立した根拠が、不十分である。

 

4、“旁”字說

この說の起源は、孔子の学生として易学家卜子夏により、始めてとなえた。唐代の陸德明《經典釈文》は、

《子夏》は、“旁”に作っている。

とある。唐代の史徵《周易口訣義》は、

彭は、旁なり。

とある。しかし、《周易卜子夏伝》は、中國古代社會のなかで、すでに失伝したが、この說を引用した者もすくないである。いまは、日本で出版されて、小林珠淵が校正された《周易卜子夏易伝》によって言えば、卜子夏は、“彭”字に基づいて言うと“旁”に解読したのである。《周易卜子夏伝》の時代と馬王堆帛書本《周易》の時代との時間距離は、わりと近寄っている。いま見ると、當時、伝えられた《周易》版本は、“匪其彭”版本を主としたため、“彭”字を解釈する時に、重大な間違いを犯したのである。

 

5、“三”字說

この說の起源は、魏晉時代の王弼が始めてとなえた。王弼《周易注》は、

旁は、三と謂うなり。

とある。王弼は、九四爻位の“その旁にあらず”を九四爻位のとなり(旁)の第三爻に理解した。唐代の孔穎達《周易正義》も九三は九四の旁にあると謂うとある。王弼は、字義の解釈を彼に棄てられた伝統的な象數学に遡った。ここには、彼のこの說と彼の“意を得、象を忘れる”の易学理論とは、明らかに矛盾している。しかも、この說の由來については、彼は、根拠をあげなかったから、この說を成立する基礎も無くなった。

 

6、“大”字說

この說の起源は、“盛大”、“盛滿”、“盛多”說から發展してきた。始めてとなえた者は、明代の陳士元であった。陳士元《易象鉤解》は、

彭は、大なり。大は、六五のある所があるなり。

とある。この說は、実は、取るに足らぬのである。“彭”を“大”に解釈するのは、“盛大”、“盛滿”、“盛多”說から發展してきた。しかも、ぃわゆる“大は、六五のある所があるなり”というのは、すなわち、王弼の“旁は、三と謂うなり”を“旁は、五と謂うなり”に直した。四爻の下爻としての第三爻を四爻の上爻としての第五爻に直したものである。この說は、実に程頤說と王弼說を混同したものである。この說は、原始用字本義に対する研究の作用を無くすことなった。

 

7、“朋”字說

この說の起源は、日本の真勢中洲が始めてとなえた。森肋皓州《周易解詁》は、

真洲氏は、《周易釈故》の中で“彭”字を排し、“朋”字說を主張している。ここでは真勢氏の主張に從った。

とある。しかし、《周易坤卦》の中には、“朋”がある。それで、“彭”字を“朋”に釈するのは、古籍の根拠が足りたいのであるから、この說を成立させる時代的根拠も無くなった。

 

8、“尪”字說

この說の起源は、漢代の虞翻が始めてとなえた。唐代の陸德明《經典釈文》は、

虞は、“尪”に作っている。

とある。また、唐代李鼎祚《周易集解》は、

虞翻曰く:匪は、非なり。その位は、尪なり。足は、尪す。体行、正しからざるなり。四は、位を失う。震は、足を折り、故に変して正を得、故に咎なし。

この說は、極めて特別な說である。“その尪にあらず”の版本が、ここから始まったのである。漢代の易学史上では、獨立獨步である。この說の由來については、私は、後文のなかで、詳細に考証を進める。

 

9、“音、義未詳”說

この說の起源は、極めて学術態度によって為された。宋代の朱熹が主張したのである。朱熹《周易本意》は、

“彭”字は、音、義、未詳なり。

とある。

 

10、“筐”字說

この說の起源は、日本の渉江羽化が考えたものである。渉江羽化《周易象義》は、

“匪”は、“筐”と同じ。離中虛、筐の象あり。

とある。しかし、この說の根拠が足りない。すなわち、“匪”字を“筐”字に解釈した古籍における証明が無い。

以上は、《大有卦·九四》爻に対する多くの解釈である。これは、以下の結論を証明することになった。つまり、この爻の論爭は、卜子夏の時代から、すでに形成されていたということが分かる。

 

三 、《大有卦·九四》爻についての諸版本考察

 

《大有卦·九四》爻にある多くの版本を考察するのは、十分に必要である。この研究は、この爻に対する版本用字の歴史を探求するためである。

 

1、帛書本

いま、保存されていて、最初の《周易》版本は、20世紀70年代の初期に出土した漢代の馬王堆帛書本《周易》である。この版本のに存在については、中國古代史料のなかに、まだ、記錄を見ない。この發見は、この版本が、漢代の初期以降、すでに失伝したということを物語っている。この版本の出現は、以下のことを意味する持つ。すなわち、中國古代の易学者達は、秦·漢易学の發展史に関する一連の重大な結論を書き直さなければならない。

私は、この論文の引論において言ったように、通行本に比べて、この版本の方が、間違った處もある。馬王堆帛書本《周易·大有卦·九四》爻の爻辭用字ついては、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。このような版本の用字は、本論文の研究に、難しさを加えている。ここからいえば、この爻の用字およば本義の論爭が、漢代の初期以降、すてに形成されていたことが分かる。

 

2、石經本

いま、保存されている最も早い石經本《周易》は、漢代の熹平石經本《周易》である。漢代から、“儒術を獨り尊ぶ”という政策が行われたので、兩漢時代に、政府が主持された《周易》の用字をする校正ことが多い。たとえば、《漢書·宣帝紀錄第八》は、

三年春……諸儒に詔し、五經の異同を講ず。

とある。また、《後漢書·孝靈帝紀第八》は、

四年春……諸儒に詔し、五經文字を正す、石に刻し、太学の門の外に立つ。

とある。また、《後漢書·孝安帝紀第五》は、

四年……東觀に五經を校正す……脫誤を整齊す、これを正文字謂とう。

など。漢代の熹平石經本《周易·大有卦·九四》爻の爻辭用字は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。ここからいえば、この爻の爻辭用字については、漢代から、“その彭にあらず。咎なし”をもって、正式な版本としていたことが分かる。漢代の他の版本の用字について、當時、ぃわゆる印刷術というのは、尚だ、誕生していなかったので、後代の文獻記錄のなかに、まだ、漢代の易学者虞翻の“その尪にあらず。咎なし”という版本·漢代以前の易学者卜子夏の“その旁にあらず。咎なし”という版本が、存在しているはずである。或いは、將來、出土する史料が、これら兩種類の版本を提供するはずであると考えられる。

 

3、宋代版本

いま、見える最も早い、書として印刷された《周易》版本は、宋代の活字排印の方法印刷したものである。唐代の印刷物は、雕版の方法で橫長くのもののなかに、印刷したものである。ぃわゆる卷子本である。こんな印刷形式の《周易》版本は、いままで、まだ、見られない。

宋代に印刷された宋代以前の易学著作については、たとえば、北宋時代に印刷した魏晉時代の王弼の《周易注·大有卦·九四》爻の爻辭用字は、“その旁にあらず。咎なし”に作っている。また、同時代に印刷された唐代の孔穎達の《周易正義·大有卦九四》爻の爻辭用字は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。北宋八經巾箱版本は《周易》原文において《大有卦九四》爻の爻辭用字は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。宋代に印刷された唐代の李鼎祚の《周易集解·大有卦·九四》爻の爻辭用字は、“その尪にあらず。咎なし”に作っている、この爻の爻辭本義を解釈した時、虞翻の学說を主張していた。

宋代に印刷された當時の易学著作については、たとえば、朱震の《漢上易伝·大有卦·九四》爻の爻辭用字は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。魏了翁の《周易要義·大有卦·九四》爻の爻辭用字は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。

宋代に印刷された漢·唐の間の易学著作のなかでは、“その彭にあらず。咎なし”、“その尪にあらず。咎なし”、“その旁にあらず。咎なし”三つの版本が並存しているという現象を說明ことになる。宋代の易学者の著作のなかでは、“その彭にあらず。咎なし”をもって主張したものが、多かったのである。この現象は、程頤が解釈した易学思想と一致しているのであるから。宋代の易学研究が、程朱理学思想の影響を受ていることが分かる。

 

4、明代版本

明代版本の重要な特點は、“その彭にあらず。咎なし”の版本用字をもって、政府が指定した版本用字とすることである。明代に印刷された明代以前の易学著作のなかでは、たとえば、萬曆兩蘇經解本のなかの蘇軾《東坡易伝·大有卦·九四》爻の爻辭用字のは、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。

明代に印刷された當時の易学者の著作のなかでは、たとえば、正雅堂版本のなかの陳士元が作った《易象鉤解·大有卦·九四》爻の爻辭用字は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。また、建陽坊版本のなかの胡広·陳順仁が作った《周易大全·大有卦九四》爻の爻辭用字、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。

明代の易学著作者達の著作は、程頤の学說を主張したのであるから、この現象は、明代が程朱理学の思想をもって正式の指導思想とすることと、明らかに関係がある。

 

5、清代版本

清代版本、宋代から三つの版本用字が並存する伝統を繼承することになった。清代に印刷された清代以前の易学著作のなかでは、たとえば、“その尪にあらず。咎なし”に作っている版本は、雅雨堂版本として唐代の李鼎祚が作った《周易集解》がある。また、“その旁にあらず。咎なし”に作っている版本。阮元が校正された版本として魏晉時代の王弼《周易注》。“その彭にあらず。咎なし”に作っている版本は、爽堂版本として明代の來知德が作った《周易集注》、積德堂版本として宋代の程頤が作った《易伝》、武英殿聚珍版として宋代の楊萬里が作った《誠齋易伝》および通志堂版本として元代の吳澄が作った《易纂言》がある。

清代に印刷された當時の易学者の著作のなかでは、たとえば、皇清經解版本として毛奇齡が作った《仲氏易·大有卦·九四》爻の爻辭用字、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。武英殿版本として李光地が作った《周易折中·大有卦·九四》爻の爻辭用字“その彭にあらず。咎なし”に作っている。

清代の諸多版本の用字においては、“その彭にあらず。咎なし”版本用字に作っている。

 

6、民國版本

民國時期における、易学の研究は、以前のいかなる時代より、明らかに劣っている。社會、國家および政治の危機と混亂により、易学に対する深い研究は、外在の基礎がすでに失われていた。それで、この期間の各種版本印刷物について、その質量と數量は、取るに足りないものであった。しかし、清末民初の際に、易学者杭辛齋、尚秉和、沈廸民、李徵剛などは、漢代の象數易学研究方法へ引き返したので、“その尪にあらず。咎なし”の版本用字を主流として、虞翻の学說を指導とした特殊な現象を形成することになった。民國十六年に出版した曹元濟が作った《周易集解·大有卦·九四》は、“その尪にあらず。咎なし”に作っている。民國二十五年に出版した清末孫星衍が作った《周易集解》、高亨が作った《周易古經今注》著作などは、“その尪にあらず。咎なし”に作っている版本用字を主張した。

 

7、日本版本

日本易学史は、中國古代易学史の一つの重要佐証として、注意すべき課題である。日本古代易学史上では、最も多い著作は、程朱易学に対する解說の本であろう。著名な易学者は、皆な程朱易学に解釈する。たとえば、淺見絅齋が作った《易学啟蒙考証》·《易經本義講義》、新井白蛾が作った《周易啟蒙考》·《周易本義考》、伊藤東涯が作った《周易伝義考異》、稻葉默齋が作った《周易本義講義》、片岡如圭が作った《易学啟蒙解》、林鵝峰が作った《周易程伝考》·《周易啟蒙私考》·《周易程說餘考》、真勢中洲が作った《易学啟蒙講義》、松井羅洲が作った《周易程伝備考》など。この現象は、中國易学史上では、明らかに多く見られたのである。

そして、日本古代易学史上では、“その彭にあらず。咎なし”を官方定本としたのである。

 

近代日本易学史上は、最も有名な《周易》版本は、後藤世鈞が點校した版本《周易正義》である。しかし、この版本の《大有卦·九四》は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。五聖閣版本の《周易正文》、天王寺屋市郎兵衛版本の《周易繹解》、長澤規矩也が校正した《和刻本經書集成》など版本の《大有卦·九四》は、“その彭にあらず。咎なし”に作っている。

これから程朱理学の影響を受けた日本古代·近代易学では、程頤《易伝》“彭彭”をもって“彭”字に解釈する学說を採用していたことが分かる。ただ20世紀の初期になって、東京帝國大学の根本通明教授が、《周易講義》·《周易象義辯解》を書いた時に、異說を主張いた。彼は、《大有卦·九四》爻の爻辭用字は“その尪にあらず。咎なし”に作っている。虞翻の学說を主流として用いられた。根本氏の以後は、このような学說を持つ人は、尚だ發現しなかった。

いま、易学を研究する有名な学者、たとえば、私が尊敬する長澤規矩也、高田真治、鈴木由次郎、本田濟、中村璋八など先生達は、《大有卦·九四》を注解する時に、皆な“その彭にあらず。咎なし”作っていて、程頤《易伝》“彭彭”をもって“彭”字に解釈する学說を贊成していた。

 

四 、虞氏易学“尪”字說についての考察

 

本章中、私は、虞氏易学に対する“尪”字說の考察を進める。

まず、虞氏易学の由來問題について、徹底的な研究を進める。

 

1、虞氏易学の由來

《三國志·吳書·虞陸張駱陸吾朱伝》の記錄よると、

臣の高祖故靈陵太守光は、少いとき孟氏易を治る、曾祖父故平輿令成は、その業を纘述す、至る臣の祖父鳳は、之を為って最も密しく。臣の亡考故日南太守歆は、鳳に本ってことを受け、最も舊書あり、世にその業を伝え、至る臣の五世になる。

とある。ここには、虞翻の家族が世代に孟氏易を治め、彼の時代までに、すでに五世になった。このことを以下で說明する、すなわち、

高祖虞光一世(孟氏易)→曾祖虞成二世(孟氏易)→祖父虞鳳三世(孟氏易)→父親虞歆四世(孟氏易)→虞翻五世(孟氏易から虞氏易へ変る)。

五代の家伝易学は、虞光の孟氏易学から始めて伝えられたのである。虞翻に至って、《三國志·吳書·虞陸張駱陸吾朱伝》の記錄によると、

先師の說を蒙り、經に依り、注を立つ……覽る所の諸家の解、流俗の義を離れず、実に當らざることあれば、輒ち、悉く改定し、もってその正さに就く。

 

とある。當時、このような嚴密な治学態度は、珍しい。虞翻の易学は、家伝の孟氏易学を基礎にして發展してきたのてある。しかし、孟氏易学は、漢初の易学を伝える三家の一であった。《漢書·儒林伝》によると、

魯の商瞿子木、《易》を孔子に受けてよ、もって魯の橋庇子庸に授ける。,子庸は、江東の馯臂子弓に授ける。子弓は、燕の周醜子家に授ける。子家は、東武の孫虞子乘に授ける。子乘は、齊の田何子裝に授ける。秦、学を禁ずるにおよび《易》は筮卜の書と為す、獨り禁ぜられず、故に伝える者は絕えざるなり。漢の興るや、田何は、齊の田をもって、杜陵に徙う、“杜田生”と號す。東武の王同子中、雒陽の周王孫、丁寬、齊服生に授ける……寬は、雒陽に至り、複た周王孫に從い古義を受ける……寬は、同郡の田王孫に授ける。王孫は、施讎、孟喜、梁丘賀に授ける……喜は、同郡の白光少子·沛の翟牧子兄に授ける。

 

とある。以上の記載から虞氏易学の成立史が明らかになる。

白光少子或いは沛の翟牧子兄の二人から虞翻の高祖の間の易学流伝については、殘念なこと、史料は、はっきりとは說明していない。從って、虞氏易学以前の易学者達が、“古義”を研究した事実は、歷代の易学者達に、ゆるがされなかった。最も重要なものに、(1)丁寬は、“複た周王孫に從い古義を受ける”とある。(2)虞成は、“その業を纘述す”とある。(3)虞鳳は、“之を為って最も密しく”とある。(4)虞歆は、“最も舊書あり”とある。

以上の重要な記錄は、“古義”に対する探求と繼承が、孟氏易学から虞氏易学の間の伝統的な学風である、ということを說明している。虞翻は、こういう時代のうちに、自分の易学体系を形成したのであろう。

 

2、虞氏易学の特徵およびその他

虞氏易学の特徵は、十二月卦·六日七分·八宮卦·納甲·互体·飛伏·爻辰·爻体·升降·卦変·半象の諸種類の象數易学方法をもって《周易》を解釈する基礎と為すことである。なお、十二月卦·六日七分の研究方法は、孟氏易学から生まれて、八宮卦·飛伏の研究方法は、京氏生。納甲の研究方法は、魏伯陽道士易から生まれて、爻辰爻体の研究方法は、鄭氏易学から生まれて、升降の研究方法は、荀氏易学から生まれて、互体の研究方法は、先秦時代原始象數学から生まれて、卦変·半象の研究方法は、彼が創始したのであろる。実は、彼は秦·漢象數易学の集大成者であり、“古法”で“古義”を研究する最高峰である。しかも、卦変·半象の研究方法の創新によって、彼は、虞氏易学の首創者となったのである。

虞氏の易学については、《三國志·吳書·虞陸張駱陸吾朱伝》の記錄によると、孔子の後代とした孔融から讚賞されたことがある、

延陵の樂を理めることを聞き、吾子の《易》を治める、乃ち、東南の美しい者を知るのは、徒だ、會稽の竹箭のみあらざるなり。

とある。しかも、《三國志·吳書·虞陸張駱陸吾朱伝》の記錄によると、

先師の說を蒙り、經に依り、注を立つ……覽る所の諸家の解、流俗の義を離れず、実に當らざることあれば、輒ち、悉く改定し、もってその正さに就く。

とある。それは、史書作者の公正な評論である。その中心的意味は、彼が《周易》を解釈したうちに、“実に當たる”をもって本として、“流俗の義”に媚らないことをもって本とずることである。ここの“実に當たる”というのは、実は、“古義”を“実”と為ずのである。

清代の有名な虞氏易学者張惠言は、《周易虞氏易·序》のなかで、以下の評論を說く、

翻の学は、既に世よにする、又た具さに馬·鄭·荀·宋氏の書を見、その是非を考える、故にその義は精と為す。又た、古書亡われて、漢·魏の師説は、見るべき者十家あり。然り惟だ鄭·荀·虞家は、略ぼ梗概あって、指說すべき。虞は、又た較ぼ備わる、然らば則ち、七十子の微言、田何·楊叔·丁將軍の伝える所を求める者は、虞氏の注を舍てれば、それ何の所に自るや。

とある。この評論の中心的意味は、虞翻の易学は、秦·漢象數易学の伝統的な研究方法を保存し、繼承した。すなわち、いわゆる“古法”で“古義”を研究するのである。それで、現代の易学者尚秉和先生は、彼が書いた《周易尚氏学》のなかで、虞翻の易学に対して評論し、“故に異說を作って、先儒と難を為す”という言葉を用いており、以上の考証からいえば、その說は、明らかに不十分である。

次に、私は、彼の《大有卦·九四》爻に対する解說に結び、虞氏の易学の評論を進める。

彼は、秦·漢象數易学を基礎とする虞氏易学を作るのである。“古義”に対する繼承、つまり、秦·漢象數易学の思想を繼承することを根本的理論とした。彼の創新は、卦変·半象の学說にある。しかし、彼が、《大有卦·九四》爻を解釈した時には、この学說は、まだ、使わなかった。

 

3、虞氏易学の“尪”字說

いま、見られる虞氏易学の“尪”字說については、唐代の李鼎祚が始めてした。この本は、両漢象數易学の珍しい史料を保存しており、漢から唐までの易学史を研究する重要な參考である。

李鼎祚《周易集解·序》は、

臣は少いとき玄風を慕い、心を墳籍に遊ばせ、から炎漢今の巨唐までを曆觀し、群賢の遺言を探う、三聖の幽嘖を議す、虞翻·荀爽三十餘家を集め、輔嗣の野文を刊し、康成の遺象を補う。

とある。それは、彼のこの本を書いた宗旨である。魏晉時代以降、王弼易学が、世に盛んになって、伝統的な象數易学は、身の置所きが無くなった。ただし、李鼎祚の《周易集解》があったために、兩漢·魏晉ひいては初唐の象數易学思想が、保存されてきた。李鼎祚は、“群賢の遺言を探う”のであるから、彼が、虞翻の如き、“古義”をも繼承した。

 

李鼎祚《周易集解》の記錄によって、

九四:その彭にあらず。咎なし。

虞翻は曰く、“匪は、非なり。その位は、尪す。足は、尪すれば、体行は、正しからず。四、位を失えば、震は、足を折る。故に尪は、変じて正を得。故に‘咎なし’。尪は、或いは、彭に作り。旁に作り、声字の誤り。”

とある。ここには、虞翻は、もし、正しくない位に立つと、跛病に罹るの如く、走るのが、正常できない。卦象からえいば、第四爻は、陰爻の爻位であるから、“六四”をもって“得位”と為して、“九四”をもって“失位”と為す、といわゆる“四失位”である。震卦の卦象は、兩陰爻と一陽爻から構成される卦象であるが、一陽爻は、下位にある。しかし、この下位にある一陽爻は、卦象において体現されるとは、“尪”の象であり、

“足は、尪すれば、体行は、正しからず”である。震卦の卦象の足が、折れるの如く、この故に“震は、足を折る”と称される。“体行は、正しからず”のなかの“尪”は、“変じて正を得”の過程については、虞翻は、言及しなかった。それで、“その彭にあらず”の象と“咎なし”の兆との間の対応関係では、虞翻は、一言の解說もなさなかったので、“変じて正を得”の一言のみで說明した。

また、虞翻が解釈した《易伝·象》は、李鼎祚の《周易集解》の記錄によると、

 

《象》曰く、“その尪にあらず。咎なし”。辯折を明らかにするなり。

虞翻曰く、“折の離は、故に“辯折を明らかにするなり”。四、乾に在れば、則ち“尪”なり。坤に在れば、“鼠”と為り。震に在れば、“幹姊を噬んで、金矢を得たり”と為り。巽に在れば、“鼎、折を足る”なり。坎に在れば、“鬼方”と為り。離に在れば、“焚死”と為り。艮に在れば、“旅の時に於ける、言は、容る所無し”と為り。兌に在れば、“睽いて孤なり。孚あり。厲うし”と為り。三百八十四爻は、獨り容る所無きなり。

 

とある。それは、虞翻が“半象”理論で“象”を解釈したのである。本卦の卦象からいえば、“離”卦の卦象が下にあり、“乾”卦の卦象が下にある時に、《大有卦》を構成することになる。この《大有卦》の第四爻の爻象は、“尪”である。“離”卦の卦象が上にあり、“坤”卦の卦象が下にある時に、《晉卦》を構成することになる。この《晉卦》の第四爻の爻象は、“鼠”である。“離”卦の卦象が上にあり、“震”卦の卦象が下にある時に、《噬嗑卦》を構成することになる。この《噬嗑卦》の第四爻の爻象は、“幹姊を噬んで、金矢を得たり”である。“離”卦の卦象が上にあり、“巽”卦の卦象が下にある時に、《鼎卦》を構成することになる。この《鼎卦》の第四爻の爻象は、“鼎、折を足る”である。“離”卦の卦象が上にあり、“坎”卦の卦象が下にある時に、《未濟卦》を構成することになる。この《未濟卦》の第四爻の爻象は、“鬼方”である。“離”卦の卦象が上にあり、“離”卦の卦象が下にある時に、《離卦》を構成することになる。この《離卦》の第四爻の爻象は、“焚死”である。“離”卦の卦象が上にあり、“兑”卦の卦象が下にある時に、《旅卦》を構成することになる。この《旅卦》の第四爻の爻象は、“旅の時に於ける、言は、容る所無し”である。“離”卦の卦象が上にあり、“兑”卦の卦象が下にある時に、《睽卦》を構成することになる。この《睽卦》の第四爻の爻象は、“睽いて孤なり。孚あり。厲うし”である。

以上は、下にあるいわゆる內卦の半分の卦象が変化したもので、“半象”と称する。しかし、この半象說は、《大有卦·九四》爻の“尪”字の解釈については、言及しなかった。すなわち、“その尪にあらず”と“咎なし”の間の関係および“尪は、変じて正を得”などの過程は、詳細に說明することが足りなかった。

そのために、虞翻の“尪”字說に再びに檢討を進めることが必要である。

 

五 、“尪”字成立史研究

 

本節では、私は、詳細に“尪”字說の原始的な本義を考察したい。それで、文字学と民俗学とを用いて《大有卦·九四》爻の爻辭文義を研究する。

 

1、三つの版本における用字の考察

漢代の許慎《說文解字》の解釈によると、

尢は、なり。脛を曲げる人なり。大に從う。偏曲の形に象たどる。凡そ尢に屬は、皆な尢に從う。尪は、篆文、に從う。

とある。“尪”字については、清代の段玉裁が書いた《說文解字注》では、

各本は、“少なり”。字は、遂に読むべからず。今、補う。は、蹇なり。尢は、本、曲脛の称なり。引伸して曲脊の称と為す。故に《人部·僂下》に曰く“尪なり”。……篆文、各本は、古文に作る。今、正す。尢は、古文象形字なり。尪は、小篆の形声字なり。……尪、《禮記·檀弓》に見え、鄭《注》は、釈して“面は、天に向く”と為す。或いは“短小を尪と曰う”と云う。本の声に從って、省いて尪に作る。

とある。段玉裁の考証によると、“尪”字の本字は、尢であり。篆文では、この字の右側は、“王”字ではなくて、“”字である。しかし、書き方を省いたうえで、“尪”に作った、ということが分かる。その本義は、“曲脛の人なり”である。しかし、この字は、いろいろな版本のなかには、“少”字に作るものである。この字に対する誤解は、長い間読いていた。

また、《說文解字義証》に、

《易·大有》“その尪にあらず。咎なし”と、虞は、“足尪、体行正しらかず”と言う。《書·洪範》には“六曰弱”と、《伝》には、“尪は劣っている”と言う。馥は、昭七年《左伝》“孟絷の足は、良からず、行くことを弱くす”と言う、《注》は、“跛なり。或いは匡字に仮りる”と言う。《荀子·正論篇》に、“是れは猶ほ伛、巫、跛、匡のごとし、大いに自からもって知ること有りと為すなり”と、《注》は、“匡は読んで尪と為す、廢疾の人なり”と言う。

とある。また、清代の文字学者桂馥が書いた《說文句読》によると、

“大”字は、人の形に象たどる、その右足を屈めれば、尢と為す。

とある。以上は、この字に対する諸種の解說である。つまり、“曲脛人”說、“曲脊”說、“短小”說、“面向天”說、“足尪体行不正”說、“劣”說、“弱行”說、“跛”說、“以為有知”說、“廢疾”說などがある。

 

是に対して、《說文解字詁林》には、

是れ匈背偏曲なり、或いは俯なり、或いは仰なり、皆な之れ尢をと謂うことを知る。而して、《九經字樣》に曰く、“その右足を曲げる者は、特だ字形によって言うなり”と。

とある。なお、ここで特に注意しておきたいのは、この字とが関係ある一つの民俗觀念である。杜預《春秋左傳注·僖公二十一年》によると、

瘠病の人、その面は、上に向く、俗に天は、その病を哀しみ、恐らくは、雨はその鼻に入る、故に之れを旱と為すと謂う。

とある。すなわち、尪と雨との関係である。また、漢代の儒学者董仲舒《春秋繁露求雨》は、

春の旱、雨を求めるのは、……巫を暴し、尪を聚める。

とある。古代の史料のなかで、この二者の関係は、緊密であったと分かる。詳細な考証は、次の“‘尪’字字義の考察”の一節を參考するのである。

“彭”字は、《說文解字》の解釈によると、

彭は、鼓声なり。“” に從いて、“彡” に從う。

とある。段玉裁が書いた《說文解字注》に、

《詩》の鼓声を言う者は、惟だ“鼍鼓逢逢”と。《毛》曰く、“逢逢は、和するなり。逢逢は、卑倉なり。《廣雅》は、に作る”と。高注《淮南·呂覽》、郭注《山海經》の引《詩》は、皆な“”に作る。許に、“”字が無し。彭は、即ち“”なり。《毛詩》“出車彭彭”、また、“四牡彭彭”、また、“駟騵彭彭”、また、“以車彭彭”。凡そ“彭彭”と言うのは、皆な馬と謂う……彭·旁は、皆な仮借。その正字は、則ち、馬部の“”なり。言うこころは、馬にして鼓声の字を仮りる者は、その壯盛、相似いるなり。

とある。段氏の考証によって、次の問題を說明しよう、(1)彭·旁は、皆な“”の仮借字である。(2)彭は、“”である。(3)彭彭は、馬の壯盛を表すのである。

この字に対する解說は、ほかの文字学者も異議が無いかもしれない。

“旁”字については、《說文解字》によると、

旁は、溥なり。二闕に從う、方声。

とある。《釈名》の解釈は、

邊に在りて、曰く旁なり。

とある。この字の意味に対するの別の解說である。

そして、清代の段玉裁《說文解字注》に、

司馬相如《封禪文》曰く:“旁魄四塞”と。張揖曰く、“旁は、衍なり”と。《廣雅》曰く:“旁は、大なり”と。按ずるに、旁の読は、滂の如し、溥とは、雙声なり。後人は、“側”に訓す。その義は、偏りなり。

とある。段玉裁の考証によって、“旁”字を“側”字に訓読したのは、“その義は、偏りなり”である。

また、《說文釈例》に、

“旁”の下に“溥なり”と云う、當に“旁溥なり”と云う。雙声字なり。蓋し漢人の旁魄、後世の“磅薄”、“滂沛”、“旁霈”、皆な一義……借りて四旁と為す。

とある。すなわち、“旁”の本義は、雙声字である“旁溥”であり、また、“磅薄”、“滂沛”、“旁霈”にも作っている。“旁側”の義として用いられれば、“その義は、偏りなり”であり、或いは、借用である。そして、易学史における“四爻の旁”をもって三、五爻位を解釈した“旁”字說は、成立しない。

以上の解說から次の結論が明らかになる、すなわち、“彭彭”は“”の仮皆字であり、單漢字との“彭”の意味とは、関係が無い、ということがである。許氏《說文解字》における“鼓声”をもって“彭”を解釈するのは、“彭”の原始的な意味を說明するのである。“旁”字の本義は、“旁薄”である。しかし、“彭”字の本義は、“鼓声”である。“尪”字の本義とは、字源上で、関係が無くて、別々で獨立である。

 

2、“尪”字の字義の考察

前文で、われわれは、この三つの版本における用字の字義をすでに考察したのでから、本節では、“尪”字の字義に対して、本格的な研究を進める。

この“尪”字の字義については、“曲脛人”說、“曲脊”說、“短小”說、“面向天”說、“足尪体行不正”說、“劣”說、“弱行”說、“跛”說、“以為有知”說、“廢疾”說などの諸說があって、《說文解字詁林》のながでも、以上の諸說に対しては、綜合的研究を進めていた。しかし、“尪”字の由來とその意味とは、誰も言及しなかった。

史料において最も早く出現した“尪”字の記錄は、《左伝·僖公二十一年》である、

夏。大旱。公は、巫、尪を焚かんと欲す。

とある。それは、巫·尪と旱との関係の記錄である。“尪”の內容に対しては、說明しなかった。ここの記錄によると、以下の意味說明する、(1)巫と旱の関係というのは、當時、民俗的な觀念として、認められる。(2)雨を求める方法は、“巫·尪を焚く”ということである。(3)《國語·楚語》には、“男に在りては、覡と云う、女に在りては、巫と云う”の說と云うのは、巫は、女性を表している。しかし、尪の性別に対しては、まだ、言及しなかった。

また、《禮記·檀弓》に、

歲旱。穆公は、縣子を召して、然るを問いて曰く:“天は、久しく雨降らず、吾れ、尪を暴せんと欲す、奚若?”と。曰く:“天は、久しく雨降らず、疾の子を暴せんと欲するは、虐なり。乃ち不可なる毋からんか”と。“然らば則ち吾れ、尪を暴せんと欲するは、奚若?”と。曰く:“天は、則ち雨降らずして、之れを愚婦人に望み、此こに於いてもって之を求める、乃ち已だ疏なる毋からんか”と。

とある。ここの記錄は、以下のことを意味する、つまり、

(1)尪と旱の関係というのは、當時、民俗的な觀念として、認められる。(2)“尪”字の字義は、疾子であり、すなわち、病気にかかった人である。しかし、どんな病気であるか、まだ言及しない。(3)“尪”の性別は、病気にかる婦人である。(4)雨を求める方法は、“尪を焚す”ではなくて、“尪を暴す”である。“暴”というのは、人を強い日差しに當てることである。今のぃわゆる“暴曬”である。漢代になってから、また、“巫を暴し、尪を暴す”への方法が変わる。

《禮記·檀弓》と《左伝·僖公二十一年》の記錄に比べると、(1)雨を求める方法は“尪を焚す”から“尪を暴す”へ変革することになった。(2)“尪”の性別は、男女の不明から明確的に女性を說明することへ変化することになった。(3)《禮記·檀弓》のなかでは、すでに、“尪”の內容と性別を說明されている。

 

とある。われわれは、“尪”字の甲骨文時代における字義と雨を求めることに関する方法を研究したい。殷墟卜辭のながで、“尪”字は、“に作った”。《殷契類纂》を參考にする、は、古尢字。許は、“跛なり”に作る。“脛を曲げる人なり”。雙つの大に從う。偏曲の形に象たどる。

とある。この字との関係があるものは、甲骨文時代の有名な“”祀制度。ぃわゆる“”祀制度というのは、甲骨文時代のなかで、記錄された、人を火の上に置いて、雨を求める一つの祭祀的な民俗制度である。

《殷墟書契前編》五·三十三·二に

貞う:く。又た、雨に從るか。

貞う:く勿れ。その雨に從る亡。

書五·三十三·三、く。又た、雨に從る。

とある。《殷墟書契前編》下·十五·二に

周に於いて。その

その書の下·十五·八、

殳に於いて。く。

とある。《殷契佚存》一千に、

貞う:く。又た、その雨を亡くす亡るか。

貞う:宰をく。又た、雨。

その書の八一八に、

企をく。

とある。など。以上の“”字については、甲骨文における字形には、上下兩部から構成されている。なお、その“”字の上部は、“人”の形に似ていて、それと似ている字は、まだ、“天”、“交”、“尢”などの字がある。すると、その“”字の上部の字を“人”と確認できるし、或いは“天”と確認できるし、或いは“交”と確認できるし、或いは“尢”と確認できるし。その“”字の下部は、“火”の行を真似る。字形からいえば、甲骨文に、それと似ている字形は、“山”、“炎”、“灬”がある。そこで、“”字の下部の字は、“火”と確認できるし、或いは“山”と確認できるし、或いは“炎”と確認できるし。綜合的にいえば、人を火の上に置いて燒くということである。

 

甲骨学者葉玉森氏は、その字を“”字と認められる。しかし、字形からいえば、“”の性別は、確認できない。そして、丁山氏《中國古代宗教與神話考》には、火に從いて交に從う、人の足を交え火の上に座る形に象たどる。人を焚き、神を祭る、それは “”字の本義である。……殷王朝の求雨の祭は、多數、その跛腳の巫尪の類を焚き、然りば則ち、祀のは、その彎腳の巫尪を焚き、この故に春秋の時、魯僖公は、この祭典を修めて雨を求めんと欲す。《楚語》には、“男に在りては、覡と云う、女に在りては、巫と云う”ということがある……ここに由りて言えば、《左伝》のぃわゆる“火,水妃”というのは、その理論の根本は、古代に、女巫を焚いて雨を求める祭典からくるものであろう。

驚くことに、《大有卦》の卦象は、“上火下天”構成されている卦象からである。この卦の反卦の卦象は、つまり、“上天下火”の《同人卦》の卦象である。ここの“上天”の“天”字は、われわれの以上の考証によっては、“人”と確認できるし、或いは“天”と確認できるし、或いは“交”と確認できるし、或いは“尢”と確認できるし、《大有卦》の卦象のなかで、隱れている最も重要な秘密は、この卦象の形成は、遠古時代の巫·尪を焚いて雨を求めることに由來しているのである。それも、易学史上、《大有卦》に関する千載不明の疑問を解きか明す要である。その卦象のなかの九四爻は、“尪”字を用いているのは、當然である。卦象と爻象の対応については、ここによく体現されていた。

 

3、“尪”の性別問題

尪は、最初、名詞として用いる時に、“巫”字と一緒に連用されていたのものである。先秦時代の漢語の使用習慣に從って、兩つの單漢字の名詞を連用すると、或いは詞義相反相対の一組を形成し、或いは詞義相近相関の一組を形成した。前者は、たとえば、神姦、民神、日月など。後者は、たとえば、醫卜、卜史、巫覡など。巫と尪との連用は、後者であり、すなわち、詞義相近相関の一組である。

《國語·楚語》に、

古は、民神は雜わらず、民の精爽は、貳を攜さえる者、又た能く齊肅衷正、その知は、能く上下比義す、その聖は、能く光遠宣朗、その明は、能く光いて之を照らす、その聰は、能く之を聰徹す、是くの如くんば、則ち、明神は之を降す、男に在りては、覡と云う、女に在りては、巫と云う。

とある。巫と覡との區別は性別にあるが。その指している內容は、一致している。

尪の性別問題については、陳夢家、張軍など、男性說を主張した。しかし、証明が足りない。私は、女性說に贊成する。証拠は次のとおりである。

 

(1)《禮記·檀弓》における“天は、久しく雨降らず、吾れ、尪を暴せんと欲す、奚若?”と、“天は、久しく雨降らず、疾の子を暴せんと欲するは、虐なり。乃ち不可なる毋からんか”と、“然らば則ち吾れ、尪を暴せんと欲するは、奚若?”と、“天は、則ち雨降らずして、之れを愚婦人に望み、此こに於いてもって之を求める、乃ち已だ疏なる毋からんか”と。以上の記錄によって、“尪”は、病気にかかる女性を表す、ということが分かる。(2)、《左伝·僖公二十一年》の記錄で、“公は、巫、尪を焚かんと欲す”と。男女性別は、まだ言われていないが、丁山氏は、《左伝》の記錄における “火は、水妃なり”によって、古代,雨を求めるために焚かれた“女巫”であるとしている。つまり、彼は、尪の性別を女性と認めているのである。(3)甲骨文の字形のなかに、尪のは性別はっきり分からない。しかし、《國語·楚語》において、“男に在りては、覡と云う”の巫と尪との連用ではなくて、“女に在りては、巫と云う”の巫と尪との連用であるから、女性の巫と女性の尪との連用である、ということが分かる。それで、尪は病気にかかる女性を表すのである。

 

4、尪と禹の関係研究

以上の考察から、われわれは、尪は足に病があって焚かれて雨を求める女性である、ということが分かる。まだ一つの問題が殘っている、すなわち、尪と禹の関係である。漢代の楊雄《法言重黎篇》において、

昔者、姒氏は水土を治む、而して巫の步は、禹多し。

とある。隋代の李軌注は、

姒氏は、禹なり。水土を治める、山川を渡る、足を病む、故に行くこと跛なり。禹は、自から聖人なり、是こをもって鬼神、猛獸、蜂蠣、蛇虺之れを蟄す莫きのみ、而して俗巫は、多く禹の步に效ねる。

とある。ここに、“病足行跛”の禹と“病足行跛”の尪とは、巫術と関係がある。すなわち、雨水と関係がある。尪は焚かれる前に、舞祭活動があるかとうか、舞祭活動の效果がなければ、尪を祭品とするであろうか、舞祭活動は、焚かれる前提であろうか。尪をもって雨を求めるのは、本當に“天は、その病を哀しみ、恐らくは、雨はその鼻に入る、故に之れを旱と為す”だったのてあろうか、また、ほかの原因が隱れているのであるか。

“巫”の字義については、《說文解字》のなかでは、

女は、事を能くし形無く、舞を以って神を降すなり。

とある。この說は以下の三つの特性を明らかにした、(1)巫は特に女性を表すこと。(2)巫は舞を以って祭神活動を表現すること。(3)巫が事える神は無形である。

また《周禮·春官》に、

若し國は、大いに旱すれば、則ち巫を帥いて舞雩す。

とある。巫の活動は、舞をもって祭を進めるということを証明した。ただし、尪は巫の一つとして、以上の三つの特徵を持つことを明らかにした、(1)尪(巫)も、特に女性を表すこと。(2)尪(巫)も、舞を以って祭神活動を表現すること。(3)尪(巫)も事える神は無形である。

 

舞祭活動を行かなわなければ、巫と称することができないし、尪と称することもできない。そこで、尪が焚かられる前に舞祭活動がある。禹は足を病むのに、彼が祭神と求雨の時、一足一足と舞う步法は、以上の引用のなかで称された“禹步”であるから、上古社會の神王として、禹の活動は、彼の舞祭表現となり、後代の求雨活動の固定した儀式になった。なぜなら、“禹は、自から聖人なり”であるから、そして“是こをもって鬼神、猛獸、蜂蠣、蛇虺之れを蟄す莫きのみ”である。禹の神的な性質は、彼の神奇の力の在るところでしょうか。遠古時代の人間は、禹と同樣な病気の人は、彼と同樣な神性があるかもしれない。禹と同樣に足を病む人を雨を求めるの道具とする。そして、甲骨文字形のなかでは、性別の區別は、はっきりわからない。尪の女性性別の固定は、すなわち、楚文化の影響を受けた產物である。《國語》における“男に在りては、覡と云う、女に在りては、巫と云う”の性別固定があるからである。

 

六 、“尪”“彭”関係考察

 

本節中、われわれは、彭と尪の関係について考察を進める。以上によって、この二つの字の本義を考察することは、すでに終わったので。いま、楚國文化の角度からこの問題を考察したい。

 

1、靈山十巫と開明六巫の問題

“彭”字は、古代楚國文化の伝統のなかで、どのような特殊な意味があるか。それは本節でその問題を究明したい。古今の学者達に無視された二つの資料が、私の研究の助けとなった。すなわち、《山海經·大荒西經》に、

靈山あり、巫咸、巫即、巫盼、巫彭、巫姑、巫真、巫禮、巫抵、巫謝、巫羅十巫は、此こ從う升降す、百藥は爰在り。

とある。また、《山海經·海內西經》に、

開明の東は、巫彭、巫抵、巫陽、巫履、巫汎、巫相あり、の屍を夾て、皆な不死の藥を操って、以って之れを距く。

とある。これは、靈山十巫と開明六巫に対する原始的な記錄である。この二つの資料の易学的意義には、いままで、誰も注意しなかったのである。私はここで、次のような說明をする。

上述の記錄のなかで、靈山と開明兩地の中に、皆な“巫彭”の名があるが、偶然の現象ではないだろう。“巫彭”の以下の幾つかの特徵を明らかにする、

 

(1)靈山十巫と開明六巫は、共に十四人の人がいる。なかでは、“巫彭”と“巫抵”は、兩地の共同信仰の巫師と為のである。“巫彭”の“巫”字は、最初は、職業に対する說明であり、後に、姓氏に対する說明となる。その証拠として、漢代の応劭《風俗通義》を参考する、すなわち、“匠は汎く事を氏とす、巫·卜·陶なり”とある。ぃわゆる“汎く事を氏とす”というのは、姓氏の由来は、その人の祖先が働いていた職業の種纇から作られたというのである。つまり、先には職業に対する說明であり、後に、姓氏に対する說明となる。(2)“巫彭”の活動範圍は、靈山と開明である。この兩地は、いまの四川·湖南·湖北一帶に相當する。すなわち、ぃわゆる巴、楚文化地區である。また、巫師“彭”に対する信仰は、靈山と開明の兩地を主とする、ということを說明することになった。(3)“巫彭”が動くことは、巫術活動と醫療と中薬と直接的に関係があるから、當時、巫·醫が一体のものであったことの反応である。原始的な巫術活動は、行醫と祭神を主とする、ということが分かる。《論語》に、“人にして恒なければ、以って巫醫と作るべからず”とある。これは巫·醫を一体のものとする証明である。(4)“升降”は、“巫彭”が巫法を行なう時の直接的な表現である。それも原始的な象數易学における“升降”学說の直接的な理論來源である。(5)“の屍を夾て”は、“巫彭”の活動は、祭舞をもって主とするのである。ここの“屍”は、上古の時代における屍祭であり、すなわち、祖先を祭る時に作った“屍位”を表すのである。《詩經·采蘋》に、“誰がその屍女にする”という言葉がある、この祭法に対する說明である。また、宋代の程頤《二程集·卷四十一》に、“古人は、祀を祭る、屍を用いる”の說がある。《書齋夜話》に、“今の巫者は、‘神はその体を附’と言うのは、蓋し猶ほ古の‘屍’のごとし”。“彭”は、巴·楚文化地區で特殊な意義があって、遠古時代の巫師の名である。ぃわゆる“巫彭”とは、巫術の仕事をするの一人というの巫というの姓の、彭という名の人のことである。《山海經》の成立は、夏禹時代の作品と伝えられているが、この說に対しては、信じられるかうか。ただし、この本がより早いとするのは、疑問がないだろう。“巫彭”に対する信仰は、巴·楚文化地區の久しく古い伝統の一つである。

 

孔子時代になって、“巫彭”の信仰から老彭·彭祖の信仰が生まれた。しかし、老彭·彭祖の典型特徵は、また、長壽をもって主として——“操不死之藥”というのは、“巫彭”伝說の中心內容である。特別に說明すると、ここの“老彭”二字は、鄭玄などは老子と彭祖の二人を称するのだと思っていますが、私はと“老”と“祖”というのは、長壽の巫師に対する“彭”敬称であると思います。“老”と“祖”とは、長壽の同義語である。

 

2、巫尪·巫彭と信仰関係の考察

以上の考察を經て、われわれは、“巫彭”に対する信仰は、巴·楚文化地區の久しくて古い伝統の一つであると考える。“彭”は、巴·楚文化地區に特殊な意義があつて、遠古時代の巫師の姓名である。ぃわゆる“巫彭”というのは、巫術職業をし、巫を姓とし“彭”を名とする人である。そして、巫·尪二者は巫彭信仰との関係があるがどうか、それは本節中でその內容を考察する。

ここに、三つの並列関係の概念がある、

(1)巫。楚國文化伝統における女性巫師を表す。(2)尪。上古の文化伝統における“足に病がある”女性巫師を表す。(3)彭。巴·楚文化伝統における巫師。性別不明。

    そこで、この三つの中心內容は、彼らは巫術を行なう巫師である。また、楚文化の伝統のなかで、巫·尪·彭三者の巫術の意義は一致したのであるから。その區別は、性別と足に病があるかどうかであろう。

 

上古の文化伝統のなかで、楚國は殷の後裔として、“殷人尚鬼”の伝統を繼承した。たとえば、《列子·說符篇》には、“楚人鬼”の記載があって、また、《呂氏春秋·仲夏紀第五》には、“荊の哀地は、巫音を作ると為す”の記載があり、また、王逸《楚辭章句》には、“昔は、楚國南郢の邑……俗その鬼を信ぶ”記錄のがあって、殷商甲骨文における巫·尪を焚いて雨を求める巫術は、春秋戰國の時代になった楚國のなかで、一つの火祭に変化することになった。すなわち、後漢時代の杜篤《祓禊賦》において言われた“巫咸の徒は、火を秉って、福を祈る”のである。巫·尪を焚いて雨を求める巫術から、巫·尪が自から火把を持つ象徵的儀式に変化することになった、それにより楚國の特有の火神祭りを形成した。《荊楚歲時記》に“共工氏に、不才の子有り、冬至の日、死す”の記載がある。漢代の鄭玄注は、“季春、將に火を出すためなり”である。火神不才は、冬至日に死にして、季春日に復活するのである。

 

七 、結

 

馬王堆帛書《周易·大有卦·九四》における“その彭にあらず、咎なし”についての版本用字は、楚文化の特殊な伝統のなかで、“その尪にあらず、咎なし”用字と、その意義は、完全に一致した。甲骨文時代の“尪焚”の民俗信仰から“彭”字用字の形成まで、さらに老彭·彭祖に対する信仰、火神に対する信仰、鬼に対する信仰など、楚國及び楚文化地區の固有の伝統の一つである、ということを說明した。それも馬王堆帛書《周易·大有卦·九四》の“その彭にあらず、咎なし”の版本用字の原因である。巴·楚文化地域とその影響を受けた文化地域など、易学版本の使用上、漢代初期になった時に、“その彭にあらず、咎なし”の版本用字と、“その尪にあらず、咎なし”の版本用字と、その意義は、完全に一致した、ということを明らかにしたのである。

 

(此文发表在《中文研究与国际传播》第三辑205-226页,2015年,华东师范大学出版社)

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