日本企業からすべてを学んで追い抜いた サムスン電子三十年の軌跡
(2008-12-07 22:52:23)
下一个
一九九七年の通貨危機に伴う苦境を脱して、
グローバル企業の仲間入りを果たした韓国サムスン電子。
同社のエレクトロニクス事業は日本メーカーとの合弁事業から始まった。
韓国に限らずアジア各国の企業が日本から技術を導入してきたが、
先達である日本メーカーをしのぐまで成長したのはサムスン電子だけである。
国内きってのサムスンウオッチャーである韓国人経営学者が、
三十年にわたる同社のテレビ事業の歴史をたどり、
成長の秘密を解き明かす。
今や世界有数のグローバル企業になった韓国サムスン電子―。同社の二〇〇四年決算の純利益は十兆七千八百六十七億ウォン(約一兆七百八十七億円、一ウォン=約〇・一円で換算)と初めて一兆円を突破した。同社以外のメーカーで純利益が一兆円を超えたのは、日本のトヨタ自動車だけである。サムスン電子がトヨタに続いて記録的な純利益を計上したニュースは、韓国国内だけでなく海外でも大きな反響を呼んだ。
白黒テレビから始まった
韓国の財閥の一つであるサムスンがエレクトロニクス事業に進出したのは、三洋電機との合弁で三星三洋(現サムスン電子)を設立した一九六九年。韓国LG電子(旧金星社)が真空管式ラジオの組み立てでエレクトロニクス事業に参入してから既に約十年が経過していた。
このように韓国国内でも後発のエレクトロニクスメーカーであったサムスンは三十六年後の今日、米ビジネスウイーク誌の二〇〇五年の企業ブランド価値調査でソニーを追い抜くほどのグローバル企業に成長した注)。
サムスンがあまねく日本のライバルメーカーを追い越して、世界トップのエレクトロニクスメーカーになれたのはなぜか。私は、名古屋大学教授時代の教え子であるサムスン経済研究所常務理事の尹鍾彦ユン・ジョンオン氏と共同で、経営史的な視点からサムスンの三十年以上に及ぶこれまでの軌跡を振り返り、この問いに対する答えを導き出そうと試みた。
尹氏と行った共同研究の特徴の一つは、サムスンのテレビ事業の発展の歴史に焦点を絞ったことである。
サムスン電子の現在の主力事業は、DRAMやフラッシュメモリーなどの半導体メモリー、ブラウン管や液晶、プラズマといったディスプレー、そして携帯電話機の三つである。これらの三つの事業が全売上高の三割ずつを稼ぎ、デジタルテレビなどの家電製品の売り上げは全体の約一割にすぎない。
だが、創業当初のサムスン電子の主力製品は白黒テレビであった。その後、カラーテレビから冷蔵庫、エアコン、電子レンジといったほかの家電製品に手を広げる。そして家電製品の製造・販売により技術や経営の基礎を固めた後、八〇年代の初めに半導体事業に参入し、液晶ディスプレーや携帯電話機といった現在の主力事業を相次いで立ち上げていくのである。
こうした多彩な事業展開を可能にしたのは、テレビの製造を通して育んだ技術力や技術者たちである。つまり、サムスン電子の創業以来の歴史を研究しようとすれば、テレビ事業を中心に据えなければならない。そこで研究対象をテレビ事業に絞ったのである。
これに伴って、研究の対象はサムスン電子だけにとどまらず、同社を中核とするサムスン電子グループに広がることになった。
グループを構成しているほかの企業は、ブラウン管やプラズマディスプレーを製造しているサムスンSDI、コンデンサーや偏向コイル、高圧トランスなどの電子部品をサムスン電子やサムスンSDIに供給しているサムスン電機、そしてディスプレー用のガラスを製造しているサムスンコーニングである。これらの三社が製造している部品を使って、サムスン電子がテレビを組み立てている。
このように、サムスン電子はテレビで部品から完成品までをグループ内部で一貫して製造する垂直統合型の生産体制を敷いているのだ。
テレビの製造においてここまで垂直統合型の生産体制をグループ内で築いているメーカーは日本にもない。
例えば、プラズマと液晶という異なるディスプレーで薄型テレビの覇権を競っている松下電器産業とシャープでさえ、ディスプレー用のガラスは外部から調達している。
NECとの合弁が貢献
サムスン電子グループのテレビ事業の歴史をたどる際、分析のフレームワークとして技術能力の段階的構築モデルを利用した。これは、私がかつて日本メーカーによる海外現地法人への技術移転をテーマに博士論文を執筆したときに考案したモデルである。
海外から技術を導入するだけの「吸収段階」からスタートし、リバース・エンジニアリングによって海外の技術を習得する「模倣段階」や習得した既存技術を改良しながら独自の新技術の開発を追求する「改良段階」を経て、自力で新技術の開発ができるようになる「革新段階」へと至る。
サムスン電子グループ四社の社史の分析や関係者へのヒアリングに基づいて同グループのテレビ事業の歴史を四段階に区分すると、一九七〇年代の前半が「吸収段階」、七〇年代の後半が「模倣段階」、八〇年代が「改良段階」、そして九〇年代が「革新段階」と位置付けられる。
サムスンという財閥ができたのは、朝鮮半島が日本の統治下にあった戦前のいわゆる「日帝時代」だ。小さな商社からスタートして肥料や砂糖の工場を運営したり精米所を経営したりしていた。三洋電機との合弁で三星三洋を発足させてエレクトロニクス事業に進出したのは、先に記したように六九年だった。
さらに、同年にNECとの合弁でサムスンSDIの前身である三星NECを、七三年に三洋電機との合弁でサムスン電機の前身の三星三洋パーツを、米コーニングとの合弁でサムスンコーニングの前身の三星コーニングをそれぞれ設立している。
すなわち、サムスンはエレクトロニクスの技術を全く持っておらず、最初は日米の企業の力を借りてゼロからスタートしたのである。
この草創期に三洋電機とNECという日本のエレクトロニクスメーカー二社が多大な貢献をしている。
三星コーニングの設立に当たっても、最初は日本の旭硝子に白羽の矢を立て、何度も接触した。しかし、旭硝子が既に別の韓国メーカーと合弁企業を発足させていたことから、やむなくコーニングと合弁企業を作ったという経緯がある。
三洋電機やNECとの合弁にも同様の経緯があった。エレクトロニクス事業への進出に当たってサムスンも当初は、日本の家電メーカー最大手である松下電器産業や東芝、日立製作所など別の日本メーカーと組みたいと考えた。しかし、これらのメーカーはLG電子など他の韓国メーカーと既に提携していたために実現しなかったのである。
結果として三洋電機やNECが合弁の相手になったのは、サムスンにとって幸いした。三洋電機もNECもテレビをはじめとする家電製品が強くなかったので、技術の移転に際してさほど多くの制約を課さなかったからである。
とりわけNECの場合、家電ではなく産業用の電子機器がメーンだったこともあって、テレビよりも難易度の高いコンピューターのモニター向けのカラーブラウン管の技術をサムスンに供与した。おそらく家電メーカーが相手だったら、そこまでの技術を提供してもらえることはなかっただろう。
合弁相手と「けんか別れ」
サムスンは七〇年に三星NEC(現サムスンSDI)で真空管の製造を始め、七三年には三星三洋(現サムスン電子)で真空管式の白黒テレビの製造を開始する。
この時点でサムスンはまだ「吸収段階」にとどまっていた。次の「模倣段階」に入る契機となったのは、七〇年代の後半に次々と合弁を解消したことである。特に三星三洋では、三洋電機との間で技術移転や契約内容を巡って意見がしばしば対立し、七五年に最後はけんか別れ同然の形で合弁の解消に至った。
七八年にはサムスンは三星NECの経営権を確保し、NECは同社の経営から手を引く。さらに三星コーニングではコーニングから派遣されていた約二十人の技術者や技術顧問が全員、米国に帰国した。
このコーニングの技術陣の撤退に象徴されるように、サムスンが合弁を次々と解消していった背景には、合弁相手から基本的な技術を吸収し終えたことがある。その結果、合弁相手の指導に頼らなくも、リバース・エンジニアリングによって海外の技術を習得するだけの技術力をサムスンは身に付けたのだ。
もっとも、ここから先は合弁相手から学んだ技術を自力で改良していかなければならない。そこでサムスン電子とサムスンSDIは八〇年代に入って総合研究所を設立し、既存技術の改良と新技術の探究に着手する。「改良段階」の始まりである。
八〇年に韓国国内でテレビのカラー放送とカラーテレビの販売が解禁となり、サムスン電子はカラーテレビのモデルの多様化や高付加価値化に力を注ぐ。
一方、八五年のプラザ合意以降の急激な円高によって日本メーカー製のテレビの価格が上昇し、価格の低いサムスン電子製のカラーテレビの欧米向け輸出が急増した。
欧米が輸入規制を強化する事態に発展し、サムスンは白黒テレビや小型カラーテレビの海外生産に乗り出す。これを契機としてサムスン電子グループはグローバル企業への道を歩み始めるのである。
そして大型テレビや平面テレビの需要が急増した九〇年代に入ると、サムスン電子グループはそれらのニーズに対応して、液晶やプラズマといった新たなディスプレーや画面の横縦比率を従来の四対三から一二・八対九と横方向に長くした新規格のテレビや完全平面テレビなどを次々と市場に投入する。
これはサムスンが「革新段階」に突入したことを示している。少なくともテレビ技術の分野では、サムスン電子グループは外部の力を借りなくても、自力で新技術を開発できる技術能力を持つに至ったのである。
その背景には、創業者の李秉氏の跡を継いだ現グループ会長の李健煕イ・ゴンヒ氏が「新経営」
の名の下で九三年から断行した経営の革新と事業構造の調整があった。
真空管を製造が後に役立つ
日本のメーカーを除けば、第二次世界大戦後のアジアのメーカーで、「革新段階」までたどり着くことができた企業は極めて少ない。欧米の先進国からの技術導入によって「模倣段階」まで到達するメーカーは多いものの、その先へ進めるメーカー
は皆無に近いのが実情だ。
海外の日系メーカーを見ても、日本の親会社の技術を模倣する段階までは比較的スムーズに進展するが、移転された技術に独自の改善成果を付け加える「改良段階」に到達できないケースがほとんどである。
そうした中、サムスンは「模倣段階」の先に横たわる困難を乗り越えて、「革新段階」まで上り詰めた。これは、アジアのメーカーの中で稀有な例といっていいだろう。
なぜサムスン電子グループは「模倣段階」にとどまらず「革新段階」までたどり着くことができたのだろうか。
特筆すべきは、六九年から七三年にかけて日米のメーカーとの間で設立した合弁企業で最初に生産したのが真空管だった点である。
日本のメーカーは既に一九五〇年代からトランジスタにシフトしており、真空管は当時、主流ではなくなった「枯れた」技術であった。NECの子会社の新日本電気(NNE)は真空管の古い製造設備を塗装し直して三星NECへ納入した。
これに対してサムスン側の社員たちは強く反発した。当時のグループ会長だった秉 氏も当然、真空管が枯れた技術であることを知ってはいた。しかし、早稲田大学商学部を卒業して日本語が堪能だった秉 氏に、NNEの経営幹部は次のように説得したという。
「将来、半導体をやりたいのであれば、真空管から始めた方がいい」
この説明には一理あった。真空管の製造工程は半導体に共通する点が多かったからである。
例えば、真空管を製造するには真空ガラスの内部で部品を接合しなければならない。そのためには真空ガラスの内部からほこりを取り除いて洗浄度を高める必要がある。この技術は半導体の製造に欠かせないクリーンルーム技術に通じるものだ。
一方で、一九六六年に韓国で外資導入法が制定されたことに伴って、フェアチャイルドやモトローラ、IBMといった米国企業や日本の東芝などが当時、相次いで韓国に半導体製造の子会社を設立していた。
しかし、これらの企業は半導体のコア技術であるシリコンウエハーの製造は自国で行い、韓国の子会社ではチップの組み立てといった労働集約的な後工程だけにとどめていた。このため、半導体の製造技術をすべて海外企業から学ぶことは不可能な状況にあったのである。
「真空管の製造に取り組んだ方が、半導体の全工程に精通する近道である」
こう考えた秉 氏は自らサムスン内部の反対者たちを説得して、真空管の製造に踏み切った。
この秉 氏の決断は後で大きくものをいった。一九八三年に半導体製造事業への進出を公表してわずか半年後に半導体を生産できた要因の一つは、真空管製造の経験があったからだ。この経験は液晶ディスプレーの製造事業に乗り出したときにも生かされることになる。
サムスンとは対照的に半導体事業で苦労したのがLG電子である。前述のようにLG電子はサムスンより十年ほど早い一九五九年に、真空管式ラジオの組み立てでエレクトロニクス事業に進出した。
だが、真空管にしても、その後のテレビや洗濯機、冷蔵庫といった家電製品にしても、いずれも主要部品を海外から輸入して組み立てる「ノックダウン方式」によって製造した。そのため、部品の組み立てには習熟したものの、主要部品の製造方法がよく分からず、LG電子は半導体事業の立ち上げに難航したのである。
結局、一九九七年に韓国を襲った「IMF危機」の後、LG電子は半導体事業を現代電子に売却する。現代電子もLGと同様に苦労した。ハイニックス半導体に名称を変更して経営がやっと軌道に乗ってきたのはここ二~三年のことだ。
NECからの技術導入で興味深いエピソードがある。
NECの子会社であるNNEから真空管の製造技術を学ぶ目的でサムスンは、NNEの草津工場に研修生を派遣した。その中に工場で働く女子工員が数多く含まれていた。航空運賃が今とは比較にならないほど高かった時代に女子工員まで派遣していたという話にまず驚いた。
これには秉 氏の独自の考えがあったといわれる。工場の製造現場で働く人の八割は女子工員である。女子工員たちのノウハウが製品の品質の良し悪しにストレートに結び付く。このノウハウは大学卒の技術者には分からない。そこで女子工員を多数派遣したというのである。
派遣される前に日本語や真空管についての教育を受けてはいるものの、彼女たち一人ひとりが教えられたことをすべて理解はできない。
一日の日課が終わった後、全員が宿舎に戻ってからチームごとに部屋に集まって、その日に覚えたことを報告し合った。パズルを組み立てるように、一人ひとりの報告内容をつなぎ合わせて、真空管の製造工程の全体像を把握しようとしたのである。このミーティングは毎日深夜まで及んだという。
技術の学習や移転の主体は、基本的にエンジニアや現場作業員などの個人であり、技術の知識やノウハウは個人に蓄積されていく。この個人の頭や手先に存在する知識、すなわち暗黙知を組織の知識に転化して定着させる。このようなマネジメントを実行したから、サムスンは「模倣段階」にとどまらずに「改良段階」や「革新段階」へ移行していくことができたのである。
キーデバイスを内製化
部品から完成品まで一貫生産する垂直統合型の事業構造を目指した点も奏功したと思われる。サムスン電子だけでなく、サムスンSDI、サムスンコーニング、サムスン電機もそれぞれ株式を上場しており、海外投資家をはじめとする株主の監視の目にさらされている。そのため各社とも経営の規律が働き、グループの中核であるサムスン電子の言いなりになってはいない。
サムスンが合弁を解消して経営権を獲得したときに、これらの会社を事業部としてサムスン電子の内部に組み入れる選択肢もあった。そうせずにサムスン電子から独立した企業として残した点は、その後のサムスン電子グループが飛躍する一因になったのではないだろうか。
枯れた技術であった真空管の製造を決断したり、垂直統合型の事業構造を維持し続けたりした背景には、自社単独で技術を開発できることを目指した秉氏の執念があった。「技術を自分で開発できないと大きな成長はあり得ない」と主張して、部品の内製化を推し進めたのだ。
最大の難関は、ブラウン管の内部で電子を放出するキーデバイスである電子銃の内製化である。電子銃の主要部品であるキャソードスリーブについて合弁相手のNECは技術移転どころか、関連資料も見せてくれなかった。サムスンSDI(当時は三星電管)はリバース・エンジニアリングにより問題を一つひとつ解決しながら、四年に及ぶ試行錯誤の末に、一九八〇年に電子銃の開発に成功した。
これによって、サムスンは日本企業からキーデバイスを購入しなくても、白黒ブラウン管を独力で製造して輸出できるようになった。先進国のテレビ市場の主流は完全にカラーブラウン管に移っていたが、サムスンは白黒ブラウン管を対外的に開放されたばかりの中国市場で販売していく。
ここでも対照的だったのはLG電子である。同社は白黒ブラウン管を中国で販売できなかった。電子銃の主要部品を日立製作所や東芝が同社に提供しなかったからである。
サムスンは中国における白黒ブラウン管の販売で稼いだ資金をカラーブラウン管やカラーテレビの開発に集中的に振り向けた。このように白黒ブラウン管を独力で製造できるようになったことが、サムスン電子が飛躍する原動力の一つになった。
日本が撤退した分野を狙う
これまで見てきたように、サムスンは日本のメーカーを常にお手本にしてきた。日本メーカーの経営や工場における現場管理をサムスンほど熱心に見習おうとした韓国企業はないといってもいい。
日本メーカーから導入した技術が多く、今でも百五十人ほどの日本人の技術顧問から指導を受けている影響もあるのだろう。サムスン電子グループの工場はいずれも日本メーカーのものとよく似ている。工場内のハングル文字を隠せば、松下電器産業やソニーの工場と見分けが付かないのではないか。
サムスンがこれまで世界シェアでトップに立った製品分野を見ても、白黒ブラウン管テレビからカラーブラウン管テレビ、DRAM、液晶ディスプレーまで、いずれも日本メーカーが撤退もしくは投資を控えている間にシェアを奪い取ったものだ。
テレビでは「吸収段階」から「革新段階」に到達するまで二十年かかったが、DRAMでは十年、液晶ディスプレーでは五年、携帯電話機では三年と期間を短縮してきている。これはサムスンの技術学習能力が進化してきた表れだろう。
これまでは日本メーカーが捨て去ってきた技術を丁寧に拾ってものにしてきたことが、サムスンを成功に導いてきたといえる。しかし今やサムスンは日本のライバルメーカーと並走し、追い越す位置まできている。
このことからサムスン電子グループが今後直面する最大の課題は、これまで世の中に存在しない独創的な技術や製品を他社に先駆けて創り出していくことだ。すなわち、九〇年代の「革新段階」をも越えて、「創造段階」に足を踏み入れなければならなくなったのである。
もはや日本メーカーというお手本はない。サムスンは、これまでとは異質の試練を乗り越えていかなければならない。
ただし、テレビに関してはこれまでと同じシナリオがまだ通用するかもしれない。
日本メーカーはカラーブラウン管テレビの製造から相次いで撤退して、液晶テレビやプラズマテレビの製造に経営資源を集中させている。しかし中国やインドといった新興国のマーケットでは、カラーブラウン管テレビの需要がこれから爆発的に増える可能性もある。
このシナリオが現実のものになれば、日本メーカーはサムスンに味わわされてきた辛酸を再びなめることになるだろう。
注 ビジネスウイーク誌がブランドコンサルティング会社の英インターブランドと共同で毎年実施している調査。同誌二〇〇五年八月一日号に掲載された調査結果によると、サムスンは前年の二十一位から二十位へ順位を上げたのに対して、ソニーは前年の二十位から二十八位へ下がり、両社の順位が初めて逆転した。サムスンより上位に位置するアジア企業はトヨタ自動車(九位)、ホンダ(十九位)の二社しかない。
斗燮(チョ・トゥソップ)
一九五六年生まれ。八三年韓国高麗大学校政経大学政治外交学科卒業、韓国外換銀行入行。九四年東京大学大学院経済学研究科を修了し、経済学博士号を取得、名古屋大学経済学部講師に就任。九六年同大学院国際開発研究科助教授。二〇〇三年同研究科教授。〇四年から現職。主な著書に『北米日系企業の経営』(共著、同文舘)、『三星の技術能力構築戦略』(尹鍾彦氏との共著、有斐閣)など。