メール依存は一利もなし対話の効用を再認識せよ
(2008-12-07 22:26:15)
下一个
メールは事実や情報を一方的に伝達する手段に過ぎない。
「生産性」では面と向かっての対話や電話に遠く及ばない。
それでもメールに依存するのは、「仕事放棄」だと言える。
メール依存の弊害に気づき対話の重要性を再認識すべきだ。
私はメールが嫌いだ。といっても、「メール恐怖症」などではないよ。オヤジではあるが、携帯メールだって打てる。言っておくが私はメールを「電子メール」と呼んでいた時代、それも初期の頃から使っていたのだよ。何せ、先端IT(情報技術)エンジニアだったのだから。
正確に言えば、メールそのものが嫌いなわけではない。嫌いなのは“あれ”をコミュニケーションツールだと思っている人たちだ。メールはコミュニケーションツールとしては全く不完全だと、ここに断言しよう。
そもそもコミュニケーションとはリアルタイムで双方向であることが前提だろう。一方通行で、タイムラグがあるようではコミュニケーションとして成り立っていない。メールでできるのは何がしかの連絡だったり、情報共有だったり、もしくは自分の考えを相手に一方的に伝えることだけだ。「会話」などではない。あえて言えば手紙か掲示板の代替物だろう。
もちろん情報伝達ツールとして全く意味がないわけではない。相手と直接会話するのが困難な状況もあるだろう。相手が遠い海外にいようと、夜中であろうと、いつでも連絡できるメールは、その限りでは便利である。とはいえ、それだけのことだ。
仕事で相手と会話する目的は、互いに影響し合って変化を生み出すことにあると私は思う。互いの考え方や立ち位置を変えるために会話するわけでしょう。とすれば相手から即反応があること、ニュアンスを互いに感じ取れること、その結果、自分の考えや話す内容が修正されて相手との合意形成がなされること、そして最終的に何らかの変化が起こること──これらが会話の目的なのであります。
であるのに、仕事のコミュニケーションをメールで進めようというのは「仕事してないのと同じだ」と私は声を大にして言いたい。確かに企業のように大きな集団ではメールは役に立つ。だがメールを会話の代わりと捉えてもらっては困るのだ。
適切な例えになっているかどうかは知らないが、ライブに行くのは生の演奏を聴いたり、出演者を見て楽しんだり、感動したりするためであろう。音響設備の音質の良さを確かめたり、劇のストーリーを理解したりするためではないはずだ。メールをコミュニケーションに使おうというのは、まるで会場で出演者のCDやDVDを鑑賞したり、舞台そっちのけで詳しい解説本を読みふけるようなものだ。これではわざわざライブ会場に出かける目的が何一つ達せられないことになる。
仕事でメールを使うのは、あくまでも事実や情報を1人ないし複数に伝達するためだ。ならばメールで自分の意見を表明したり、受け取った相手からのフィードバックを期待してはいけない。自分の意見や考え方を社内に広く訴えたければ「論文の発表会」でもすればいい。
皆さんにぜひともお願いしたいのは「できる限りメールを使うのはやめましょう」ってことです。メールが生産性を上げるなんてことはありません。電話の方がはるかにましです。まして相手が目の前にいるなら普通に話しかければいい。夜中に必死になってメールを打つくらいなら、朝早く出社して相手と話せばいいのだ。
メールは事実・情報の共有と連絡のみにして、後は全部、直接相手と会話することにしましょうよ。そうでなければ、あなたは仕事の放棄という“重罪”を犯していると断じさせていただく。
と、ここまで言っておきながら、メールでもコミュニケーションが成り立つケースが1つある。極めて親しい友人や恋人とのメールである。親しいからこそ「行間」が読める。書いている相手の様子も想像できる。たった一言ですべてが伝わる。「見つめ合うだけですべてが分かる間柄」ってやつですね。こればかりは認めよう。
Masayuki Makino